聖書から見た自己中心バイアス―第3回 哲学的視点から見た自己中心バイアス

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「我思う、ゆえに我あり。」

デカルトのこの言葉は、近代哲学の出発点とされています。

しかし、ここにすでに「自己中心バイアス」の哲学的構造が埋め込まれています。

人間の存在を「我(自己)」から出発して考える――それは、神を中心とした中世的世界観からの転換でした。

この転換こそが、現代の自己中心的思考の哲学的ルーツです。

 

「我」を出発点とする思考の危うさ

デカルトの「我思う」は、疑いの果てに残る確実なものとして“思考する自我”を発見したものでした。

しかし、この自我中心の思考法は、「存在の中心は自分である」という暗黙の前提を生みました。

神を基準にして世界を理解していた人類は、ここから「自分を基準に世界を理解する」方向へと進みます。それが「近代合理主義」と呼ばれる思想の根です。

哲学史的に見れば、この“自我の覚醒”は人間の知的進歩の象徴でした。

しかし、聖書的視点から見れば、それは同時に「神を中心とする秩序」からの離脱でもありました。つまり、“我思う”とは、“神思う”を忘れた心の構造です。

 彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。(ローマ人への手紙1章21節)

この一節は、まさにデカルト以降の人間理性の姿を預言的に表しているようです。

知性の中心が神から自我に移った瞬間、人間は理性的でありながら霊的に盲目になったのです。

 

「自己中心」は人間認識の宿命か

哲学的に見れば、人間は完全に「他者の視点」や「神の視点」に立つことができません。

なぜなら、私たちが世界を知るのは、必ず“自分の意識”を通してだからです。

カントはこの構造を「認識の枠組み(カテゴリー)」と呼びました。

私たちは「自分のレンズ」を通さなければ、現実を理解できない――これが人間理性の限界です。

心理学で言う「自己中心バイアス」は、まさにこの哲学的限界の延長線上にあります。

つまり、人間が自己中心的であるのは“性格の問題”ではなく、“存在構造の問題”でもあるのです。ここに、人間の悲劇があります。

しかし、聖書はこの構造を「宿命」としてではなく、「癒されるべき傷」として語ります。

なぜなら、神は人間を“自我の中”に閉じこめるためではなく、“愛の関係性”の中で生かすために造られたからです。

 

「神中心の思考」への転換

イエスの教えの核心は、「自己否定」ではなく「自己中心の否定」です。たとえば次のように言われました。

 だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(ルカ福音書9章23節)

これは自己を無にすることではなく、“中心の座を神に譲る”という意味です。

心理学的にいえば、「主観の中に絶対的他者(神)を導入すること」にほかなりません。

人間は完全な客観者にはなれませんが、神の視点を仰ぐとき、主観が相対化されます。

その時、初めて「自己中心バイアス」から自由になり始めるのです。

神中心の思考とは、「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「神が思われる、ゆえに我あり」という存在理解です。

 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。(使徒行伝17章28節)

この聖句は、人間という存在が、神の意識の中に包まれていることを示します。

私たちは自らの意識の中に神を置くのではなく、神の意識の中に自らを置く――その転換こそが、「神中心的思考」への回帰です。

 

「自己中心」から「関係中心」へ

哲学者マルティン・ブーバーは、人間の関係を「我‐それ」と「我‐汝」という二つの関係で表しました。

「我‐それ」とは、他者を“対象”として見る関係であり、「我‐汝」とは、他者を“人格”として見る関係です。

前者は自己中心の思考であり、後者は愛の関係的存在です。聖書の神との関係もまた「我‐汝」の関係です。

神は私たちに、「あなた」という言葉で語りかけられるお方です。

祈りとは、自分の思いを神に押しつける行為ではなく、「あなたの御心がなりますように」と心を開く行為。そこに“他者中心”への最初の扉が開かれます。

 

「我思う」の限界と「神思う」の自由

人間の「我思う」は、どこまで行っても自分の枠を超えられません。そこでは知識が増えても、平安は得られません。

一方、「神思う」――つまり神の意志に心を合わせるとき、人は安心と秩序を回復します。

 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。(詩篇37章5節)

この“ゆだねる”という行為は、心理学的にも「認知の脱中心化」と呼べるものです。

自分の考えを絶対視せず、より大きな意志に委ねること。それが、人間の思考を狭い自己中心の檻から解き放ちます。

哲学が「自我の確立」を目指すのに対し、聖書は「神との関係回復」を目指します。

両者の出発点は異なりますが、目的は同じ――真理への到達です。しかし、真理は概念ではなく人格です。

だからこそ、自己中心を超える唯一の道は、神中心の愛の関係に入ることです。

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