聖書から見た多神教―第1回 なぜ多神教と一神教の比較が必要なのか?

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1.多神教が「寛容」や「多様性」の象徴とみなされる現代

現代の日本社会では、多神教的な価値観が自然な前提として受け入れられる傾向があります。

たとえば、「どの神様も認めれば平和になる」「多神教は寛容で、一神教は排他的」という主張は、多くの人にとって直感的で理解しやすい印象を与えます。

宗教にそれほど関心のない人々にとっても、多神教は“多様性の象徴”として評価され、一神教は“排他性の象徴”として語られることが少なくありません。

しかし、こうしたイメージだけで世界観を判断してしまうと、私たちは非常に重要な点を見落とすことになります。

なぜなら、各宗教の世界観は、「神の数の違い」以上に、善と悪をどう理解するかという前提が背後にあり、それが社会や人間の生き方の核心部分を形作ってきたからです。

歴史を見ても、思想を見ても、そして人間の生き方そのものを考えても、善と悪の理解は避けて通れないテーマであり、その前提の違いは、社会の方向性にも大きな影響を与えてきました。

 

2.本シリーズが扱う核心:善と悪の起源と目的論

本シリーズが扱うのは、単なる宗教比較ではありません。

 ●善と悪はどこから来たのか
 ●悪は根絶できるのか
 ●人生や社会の目的とは何か

という、人類が共有する根源的な問いです。

そして、これらの問いへの答えは、その宗教が善と悪をどのように位置付けているかによって、まったく異なるものになります。

本シリーズでは、聖書的世界観と多神教的世界観という二つの枠組みを比較し、両者の前提と結論がいかに異なり、どのような生き方を導くのかを明らかにしていきます。

 

3.聖書が示す善と悪の前提―創造時に悪は存在しなかった

聖書は、創造の時点では悪が存在しなかったと明言しています。

 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記1章31節)

これは単なる創造物語ではなく、聖書の世界観を形作る根本的な前提であり、悪は本質的要素ではなく、後から入り込んだ異常な状態であるという理解を示しています。

つまり、悪は世界の構造に組み込まれておらず、創造の目的に含まれていなかったという位置づけです。

 

4.多神教の前提―善と悪の共存

これに対して多神教では、善神と悪神が初めから共に存在し、それぞれが世界の秩序を形作る役割を担うと考えます。

ここでは、善と悪は構造的に共存し、どちらも世界の維持に必要な存在とみなされます。この違いは、単なる神話設定ではありません。

世界の成り立ちをどう理解するかという根本が異なるため、人生観、倫理観、歴史観、救いの理解も、すべて別方向に展開していくのです。

 

5.聖書が示す悪の本質―“創造から外れた状態”

聖書は、悪が創造の一部ではなく、後から“入り込んだ”ものとして説明します。

 わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(ヨハネ福音書15章5節)

この聖句が示すように、人間も世界も、本来は神との正しい関係の中で善を保つように創造されました。

したがって、悪とは、神との関係が断たれた結果として発生する異常な状態であり、創造の構造的要素ではないのです。

この理解があるからこそ、聖書は「悪は根絶可能である」と語ることができます。

 

6.多神教が調和を最重要視せざるを得ない理由

一方、多神教では、悪は世界の構成要素の一部であり、善と共に初めから存在するものとされます。

そのため、多神教における中心課題は、悪の排除ではなく、善と悪の均衡を保つことになります。

この世界観のもとでは、

 ●秩序と混沌
 ●光と影
 ●創造と破壊

といった対立要素のバランスが、世界秩序の維持に不可欠とされ、悪もまた必要な存在として扱われるのです。

 

7.調和思想の利点と限界―平時は安定、乱世では機能不全

調和を重んじる思想は、平穏な社会においては一定の安定をもたらします。

しかし、乱世や深刻な危機に直面すると、問題の根本解決ではなく、調整に終始してしまい、悪の増大を止められないという重大な限界を持ちます。

一方、聖書は、悪が後発的な逸脱であると理解するため、悪は克服され、創造本来の姿に回復できるという希望が成立します。

この違いが救いの理解に決定的な相違を生むのです。

 

8.歴史観の違い―循環か、完成へ向かう線形か

 多神教:歴史は循環する。

 聖書:歴史は創造 → 堕落 → 回復 → 完成の線形構造

循環思想では、悪が永遠に続き、同じ問題が繰り返される前提が置かれます。

これに対し聖書的歴史観では、悪が取り除かれ、創造目的が完成するという終末的希望が存在します。

このように、多神教の世界観では、悪が永遠に存在する前提があるため、根本的な救い(悪の完全除去)という発想が成立しません。

その結果、人生や社会の問題も「調整」「バランス回復」にとどまり、根本解決が追求されにくくなります。

 

9.聖書が示す希望―悪の根絶と創造目的の完成

聖書の世界観は、最後に悪が滅び、創造の目的が完成するという希望を掲げます。

 もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21章4節)

最終的に悪が永遠に取り除かれた世界が示されているのです。この確信が、信仰者に積極的な行動原理を与えます。

 

10.本シリーズの目的

本シリーズの目的は、多神教を批判することではなく、それぞれの世界観がもつ善悪の前提が、どのように人生・社会・歴史の理解を形成するかを明確にすることにあります。

そのうえで、多神教の限界(悪の永続性・調和第一主義)と、聖書が示す希望(悪の根絶・創造目的の完成)を比較し、世界観が人生の方向性を決定するという重大なテーマを扱っていきます。

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