聖書から見た多神教―補 「統一原理」が示す「善と悪に対する第三の視点」

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本シリーズでは、多神教と聖書的一神教の世界観を比較しながら、「善と悪をどのように理解するか」という前提が、人生観・歴史観・救済観に決定的な違いをもたらすことを見てきました。

ここでは、その議論をさらに一段深めるために、「統一原理」(『原理講論』)が提示する独特な善悪観を補足的に取り上げたいと思います。

この善悪観は、一神教の「悪は最終的に根絶される」という主張とも、多神教の「悪は世界の一部として存在し続ける」という理解とも同一ではありません。

むしろその両者を、より高い次元で統合する視点を提供しています。

 

1.「統一原理」の善悪観

「統一原理」(『原理講論』)は、善と悪を次のように定義します。

 善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。(『原理講論』p118)

ここで重要なのは、善と悪が「本質的に異なる二つの存在」ではないという点です。

人間の性稟(性質・欲望・能力)そのものは、本来「創造本性」であり、それ自体が善でも悪でもありません。

決定的なのは、その性稟がどの目的を指向して現れるかという点です。

神のみこころ、すなわち創造目的を指向して現れれば「善」となり、サタンの目的、すなわち自己中心的な方向を指向して現れれば「悪」となるのです。

このように、「統一原理」が主張する善悪の区別は、存在の違いではなく方向性の違いによって決定されます。

 

2.「統一原理」の善悪観が示す堕落の本質

このような善悪に対する理解は、堕落を悪なる性質が新たに創造された出来事ではなく、本来は神の創造目的に従って生きるように造られていた人間が、その生き方の中心を神から自分自身へと移してしまった出来事として捉え直します。

すなわち、堕落とは、欲望が生じたことでもなく、能力が与えられたことでもなく、目的の中心が神から自己へと移行した状態です。

これは、創世記の3章における「善悪を知る」という表現とも深く対応しています。

神を中心とするのではなく、自分自身が善悪判断の主体になろうとしたこと、それが人間の堕落であるという理解です。

 

3.「悪は根絶される」とは存在の消滅ではなく方向の転換である

ここで、『原理講論』の善悪観は、一神教的な「悪の終焉」と多神教的な「悪の存続」という二つの主張を、そのまま対立させるのではなく、次元を変えて再定義します。

悪なる存在は、その目的の方向性が反対方向、すなわち神の創造目的の方向に転換されれば、その存在自体はそのまま存続しながらも、同時に悪が消滅するのです。

これは非常に重要な視点です。悪が「実体」ではなく「方向性」であるならば、悪を根絶するとは、存在を消し去ることではなく、目的の中心を神へと転換することを意味します

そのとき、存在は残りながら、悪という結果が消滅するということが起こり得ます。

この意味で、「統一原理」(『原理講論』)は「悪の終焉」を否定していません。

ただし、それを存在論的消去ではなく、目的論的転換として理解しているのです。

 

4.復帰摂理とは「方向転換の歴史」である

この善悪観に立つとき、復帰摂理の意味も明確になります。

復帰とは、堕落した世界を一度壊して作り直すのではなく、同じ世界、同じ人間を用いながら、サタンの目的を指向する方向性を神の創造目的へと転換していく過程です。

その究極的な完成が「地上天国の建設」として理解されるのです。

ここでは、悪なる世界が消滅するのではなく、世界そのものが目的の転換によって善へと復帰するという、非常に動的かつ歴史的な救済像が描かれています。

 

5.結論―善悪を「方向性」で捉える視点がもたらす統合

このように見てくると、「統一原理」の善悪観は、多神教的二元論のように「善と悪が永遠に対等に並立する世界」でもなく、単純な一神教的理解のように「悪なる存在がすべて消滅する世界」でもありません

それらを超えて、善悪を「目的指向の違い」として再定義することによって、悪の終焉と存在の連続性を同時に成立させる視点を提示しています。

これは、本シリーズで扱ってきた「世界観の違いが人生を決定する」というテーマを、さらに深い次元で裏づける補足的理解と言えるでしょう。

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