1.「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」という言葉の意味
ルカによる福音書17章20~21節で、イエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と語られました。
この「あなたがたのただ中にある」という表現は、しばしば「心の中にある」と内面化して解釈されてきました。
しかし、ギリシア語原文の ἐντὸς ὑμῶν(エントス・ヒュモーン)は、「内面」という意味だけでなく、「あなたがたのただ中に」「あなたがたの間に」という意味でも用いられる表現です。
しかも、この言葉はパリサイ人に向かって語られており、イエスが、神の国が彼らの「心の中」にあると言っていると考えるのは無理があります。
むしろ、神の支配はすでに彼らの集団のただ中に現れている、という意味に理解する方が、文脈的にも自然です。
ここで重要なのは、神の国が個人の内面の状態ではなく、人と人との関係の場に現れる秩序であるという視点です。
2.「二人または三人のただ中に」―臨在は集まりの中にある
この理解をはっきり裏づけるのが、マタイによる福音書18章20節の「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」という言葉です。
ここでイエスは、ご自分の臨在が個人の内面ではなく、人と人が集う関係の場に現れることを明確に語っておられます。
教会とは建物や制度を指すのではなく、キリストの名において結ばれた関係そのものを意味するのです。この理解は、中国の家庭教会や初代教会の家における集会とも重なります。
制度や権威がなくても、関係のただ中にキリストは臨在されるという考え方は、きわめて聖書的な教会理解と言えるでしょう。
3.律法の中心は「神への愛」と「隣人への愛」
イエスは、律法の中心を次の二つに要約され、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書22章37~40節)と言われました。
ここで明らかなのは、聖書信仰の中心が、神との関係と人との関係の在り方に置かれているという事実です。
信仰とは単なる内面の確信ではなく、関係の中で具体的に形を取る生き方そのものだということが、ここではっきりと示されています。
4.愛の極致は「友のために自分の命を捨てること」
さらにイエスは、愛の完成形について「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)と語られました。
ここで示されている愛は、感情や理念ではなく、関係の中で自分を与える行為としての愛です。
愛は抽象的な概念ではなく、人と人との関係の中でのみ現実のものとなります。
そして、その究極の姿が、自己を差し出すことにあるのだと、イエスは語られたのです。
5.聖書に見る信仰の一貫した構造
ここまで見てきた聖句は、すべて同じ方向を指し示しています。
神の国は「関係のただ中」に現れる(ルカ17章)
キリストの臨在は「集まりのただ中」にある(マタイ18章)
律法の中心は「神と隣人との関係」である(マタイ22章)
愛の完成は「関係の中で自分を与えること」である(ヨハネ15章)
つまり、聖書の信仰は一貫して、個人の内面ではなく、関係と共同体の中に現れる信仰として描かれているのです。
6.欧米型キリスト教が見失いやすかったもの
近代の欧米型キリスト教は、信仰を内面の確信の問題として捉え、救いを魂の問題に縮小し、教会を制度として組織化する方向へと進んできました。
その結果、聖書が本来持っている関係的・共同体的・歴史的な構造が、次第に見えにくくなっていきました。
今回のシリーズで扱ってきた日本文化に残る関係の倫理や、中国の家庭教会に見られる生活の中の信仰は、まさにこの聖書本来の構造への回帰として位置づけることができます。
結:神の国は「生き方のただ中」に現れる
神の国とは、死後に行く場所でも、個人の内面に閉じた安心状態でもありません。
それは、人と人との関係、共同体のあり方、日々の生き方のただ中に現れる神の秩序です。
そしてそれは、イエスご自身が人々のただ中に立ち、互いに愛し合うことを教え、命を与える生を実際に生きられた、その生そのものによって示された現実だったのです。

