聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅱ―第4回 第三の試み

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1 最も本質的な誘惑

第三の試みは、三つの試みの中で最も本質的な問題に触れています。

 「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ4章9節)

ここでは、世界のすべての国々とその栄華が提示されています。これは単なる物質的な誘惑ではありません。支配、成功、権力、名誉といった、人間が求め得る最大の価値が示されています。

この試みの特徴は、その規模の大きさにあります。第一の試みが「パン」、第二が「安全」であったのに対し、ここでは「世界そのもの」が対象となっています。

 

2 提示される価値の正当性

ここで重要なのは、提示されているものが、一見すると価値あるものに見えるという点です。

世界を治めること、秩序をもたらすこと、成功を収めること自体は、必ずしも否定されるものではありません。むしろ、それらは正しい形であれば良いものとなり得ます。

しかし問題は、それがどのような条件で与えられるかです。

悪魔は、「拝むならば与える」と語ります。すなわち、ある対象にひれ伏すことと引き換えに価値が与えられるという構造です。

ここにおいて、問題は行為そのものではなく、「礼拝の対象」にあります。このとき問われているのは、何を得るかではなく、「誰を拝するのか」という問題です。

 

3 イエスが示された基準

この試みに対して、イエスは明確に語られました。

 「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (マタイ4章10節)

ここで引用されているのは、申命記6章13節の言葉です。この一言によってすべてが明確になります。

すなわち、人間が何を得るかは、「誰を拝するのか」によって決まるということです。

イエスは、どれほど大きな価値が提示されても、礼拝の対象を変えることはされませんでした。

 

4 礼拝とは何か

ここで改めて「礼拝」とは何かを考える必要があります。

礼拝とは単に宗教的な儀式を指すものではありません。それは、最も価値あるものとして何を認めるかという問題です。

人間は必ず何かを最終的な基準として生きています。それが神である場合もあれば、それ以外のものである場合もあります。

したがって、「何を拝するか」という問いは、「何を基準として生きるか」という問いと同一です。この意味で第三の試みは、人間存在の中心的な問題に触れています。

イエスはヨハネによる福音書4章24節において、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」と語られました。

礼拝は形式ではなく、何を最終的な実在として認め、それに向かって生きるかという問題です。この意味において、すべての人間は常に何かを礼拝していると言えます。

 

5 偶像という現実

この問題は現代においても極めて具体的です。

古代において偶像は目に見える形をとっていましたが、現代においてはより内面的で抽象的な形をとっています。

たとえば、金銭、成功、地位、評価、あるいは自己そのものが、最終的な価値として扱われることがあります。

これらは本来、手段として用いられるべきものです。しかしそれが最終的な目的となるとき、それは偶像となります。

それを得るために他のものを犠牲にする、それによって自分の価値を測る、それなしには生きられないと感じる。このような状態に至ったとき、それはすでに礼拝の対象になっているのです。

 

6 選択の本質

第三の試みにおいて示されているのは、極めて単純でありながら決定的な選択です。

それは、神を拝するのか、それ以外のものを拝するのかという選択です。

この選択は、外面的には些細なものに見える場合もありますが、その結果は、人間の生き方全体を決定します。

なぜなら、何を拝するかによって、何を優先し、何を選び、どのように生きるかが決まるからです。

 

7 結論―何を礼拝の対象とするかによってすべてがきまる

第三の試みにおいて明らかになるのは、人間は必ず何かを拝しているという事実であり、その対象が人間のすべてを決定します。

イエスは、「ただ神にのみ仕えよ」という言葉によって、この問題に対する明確な基準を示されました。

どれほど大きな価値が提示されても礼拝の対象を変えない。これによって、誘惑に対する最終的な勝利が確定するのです。

 

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