聖書に学ぶ礼拝と賛美―第5回 苦難の中の賛美

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1 苦難の中の賛美について

これまで見てきたように、賛美は神との関係の中から自然に生まれるものであり、救いの出来事を受けてあらわれる表現です。

しかし、その本質が最も明確に現れるのは、喜びや順境の中ではなく、むしろ苦難の中においてです。

順境の中で神をほめたたえることは比較的容易ですが、苦しみや不安、不条理に直面したときに賛美できるかどうかによって、その信仰の深さが問われます。

したがって、苦難の中の賛美は、その信仰の深さを示す一つの指標となるのです。

聖書は、この問題を抽象的にではなく、具体的な出来事を通して示しています。

 

2 イエスにおける賛美

その最も重要な場面が、イエスの最後の晩餐の後に記されています。

 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。(マタイ福音書26章30節)

この「さんび」は、過越の食事において慣習として歌われた「ハレル」、すなわち詩篇113篇から118篇の賛美と考えられています。

その中には「わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。」(詩篇118篇17節)という言葉も含まれます。

ですから、イエスはご自身の死を前にしながら、まさにその言葉を歌われたことになります。

この場面は極めて重要な意味を持っています。イエスはこの直後に捕えられ、十字架へと向かわれます。すなわち、この賛美は苦難の直前にささげられたものです。

ここでの賛美は、状況の改善を前提としたものではありません。むしろ、苦難が避けられないことを知りつつ、その中でなお神に向かう姿勢が表れています。

このことは、賛美が環境に依存する行為ではないことを示しています。賛美とは、外的状況が整っているから行われるものではなく、神との関係に基づいて成立する行為なのです。

 

3 パウロとシラスの賛美

同様の構造は使徒行伝にも見られます。パウロとシラスが投獄された場面です。

 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。(使徒行伝16章25節)

彼らは不当に捕えられ、足かせをはめられた状態にありました。人間的に見れば、嘆いたり、絶望したりするのが自然な反応です。しかしその中で、彼らは祈り、賛美しました。

ここで重要なのは、賛美が単なる感情の表現ではないという点です。彼らは喜ばしい状況にあったから歌ったのではなく、状況に関係なく神に向かう関係の中に立っていたからこそ歌ったのです。

この出来事の後、地震によって牢の扉が開かれるという展開が続きますが、賛美そのものはその結果を期待して行われたものではありません。賛美は結果ではなく、関係に基づく行為です。

この出来事を通じて、看守はパウロたちにひれ伏し、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」(使徒行伝16章30節)と尋ね、信仰へと導かれました。

賛美は神に向かう行為であると同時に、同時に周囲の人々への証しとなるという事実もここに示されています。

 

4 苦しみと賛美の関係

では、苦難と賛美はどのような関係にあるのでしょうか。ここで重要なのは、賛美が苦しみを否定する行為ではないという点です。

聖書は苦しみの現実を否定していません。むしろ詩篇には、苦しみや嘆きが率直に語られています。

詩篇22篇の冒頭にある「わが神よ、わが神よ、なにゆえわたしを捨てられるのですか」という言葉はその典型です。

この訴えはイエスが十字架上で引用されたことでも知られていますが(マタイ福音書27章46節)、苦しみを正直に語りながら、最終的には神に身をゆだねるところへと向かう構造を持っています。

したがって、苦難の中の賛美は、「苦しみがないふりをすること」ではなく、「苦しみの中にあっても、神との関係を失わないこと」を意味します。

ですから、自分中心に出来事を捉えるのではなく、神との関係の中で捉え直すことが賛美なのです。

 

5 まとめ

本稿では、イエスとパウロの具体的な事例を通して、苦難と賛美の関係を考察しました。

賛美は順境の中でのみ成立するものではなく、むしろ苦難の中でその本質が明らかになります。

イエスの賛美は、十字架を前にしてなお神に向かう姿勢を示し、パウロとシラスの賛美は、状況に依存しない信仰の在り方を具体的に示しています。

したがって、賛美とは環境に左右される感情ではなく、神との関係に基づく行為であり、その関係の確かさが、苦難の中で最も明確に現れるのです。

 

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