1 断食後に行われた誘惑の意味
第一の試みを改めて見ると、見落としてはならない重要な点があります。それは、この誘惑が断食中ではなく、断食が終わったあとに行われているという点です。
四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。(マタイによる福音書4章2節)
もしこの誘惑が単に断食をやめさせるためのものであれば、断食の最中、最も肉体的に厳しいときに働きかけたはずです。
しかし実際にはそうではありません。あえて断食が終わったあと、すなわちパンを食べてもよい状況において誘惑が行われています。この点は、この試みの本質を示す重要な手がかりです。
2 誘惑が断食中でなかった理由
断食中であれば、「今は断食中である」という明確な理由によって、その誘惑を退けることができます。すなわち、パンを食べないこと自体が神に従う行為であり、行動の基準はすでに定まっている状態です。
このような状況では、たとえどれほど強い誘惑があったとしても、それは外面的な理由によって退けることが可能です。その場合に問われるのは、人間的な忍耐力や意志の強さです。
しかし断食が終わったあとには、その状況が大きく変わります。もはやパンを食べること自体は正当であり、行為の是非という点では問題がなくなります。
すなわち、外面的な理由で誘惑を退けることはできない状況になるのです。
3 問われていたのはみ言かパンかの優先順位
このような状況において初めて明らかになるのは、何を優先するのかという問題です。すなわち、肉体の欲求を満たすパンを優先するのか、それとも神のみ言を優先するのかという選択が問われていたということです。
サタンはまさにこの点を突いて、「石をパンに変えよ」と語りかけました。この言葉は一見すると合理的であり、状況にも合致しているように見えます。
しかしその実質は、神のみ言ではなく、自分の判断を基準として空腹を満たす行動をするように促すものでした。
ここにおいてサタンの誘惑の本質が明確になります。それは単に誤った行為を行わせることではなく、正当な行為を自分の判断によって行わせ、神のみ言を基準としないようにすることです。
4 イエスの答えに示された基準
この試みに対するイエスの答えは次のようなものでした。
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 (マタイによる福音書4章4節)
パンは人間にとって必要なものであり、すでに断食を終えたあとだったので、パンを食べること自体は正当です。しかしイエスは、それを自らの判断で行うことを拒まれました。
それはサタンの言葉に従って行うことになるからです。ここに神のみ言を基準として判断し、行動されるイエスの姿が示されています。
5 結論―許されているときにこそ試される信仰
この第一の試みを通して見えてくるのは、誘惑が単に禁止されていることを行わせるものではないということです。むしろ、許されている状況においてこそ、その人が何を基準としているのかが問われるのです。
サタンが断食中ではなく、あえて断食後の、すでにパンを食べてもよい状況を選んで誘惑してきたのは、この点を明らかにするためだったと言えます。
すなわち、肉体の欲求を満たすパンを優先するのか、それとも神のみ言を優先するのかという選択こそが、この試みにおいて問われていた核心なのです。
そしてイエスは、この問いに対して、一貫して神のみ言を基準として立たれました。
ここに誘惑に対する最も基本的な原理が示されています。すなわち、人は状況や必要によってではなく、神のみ言によって生きるべき存在であるということです。

