聖書から見た共産主義の起源―第1回 神への信頼喪失から始まる不信と共産主義

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1 はじめに

共産主義の起源について語られるとき、多くの場合、その原因は産業革命や資本主義の発展、貧富の格差、労働問題などに求められます。

確かにそれらは共産主義発生の重要な背景となりました。しかし、それだけでは説明できない問題があります。それは、なぜ共産主義がキリスト教文明圏の中から生まれたのかという問題です。

もし共産主義が単なる経済的矛盾の産物であるならば、同じような思想は、歴史上のさまざまな文明の中から現れても不思議ではありません。

しかし実際には、神への信仰を文明の基盤としてきた社会の中から、神を否定する思想としての共産主義が誕生したのです。

この事実を理解するためには、歴史を単なる出来事の連続として見るだけではなく、人間の内面との関係から見る必要があります。

『原理講論』には次のような一節があります。

 創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会である。(『原理講論』p123)

この言葉は、社会や国家や文明が単なる人間の集合体ではなく、一人の人間を拡大したような存在であることを示しています。

もしそうであるならば、一人の人間の心の中に起こることは社会にも起こり、社会に起こることは文明全体にも起こるはずです。

このような観点から考えてみるとき、共産主義の起源を理解するためには、まず一人の人間がどのように神から離れていくのかを理解しなければなりません。

 

2 人はどのようにして神から離れるのか

人は最初から神を憎んでいるわけではありません。むしろ神に期待し、神を信じ、神に助けを求めながら生きています。

苦難に直面すれば神に祈り、人生の意味を求めるときには神の導きを願います。これは古代の人々だけではなく、現代人も同じです。

しかし人生には、自分の期待どおりにならない出来事が数多く存在します。

真面目に生きていても苦しみを経験することがあり、善人が苦しみ、悪人が栄えているように見えることもあります。また、熱心に祈ったにもかかわらず、願いがかなわないこともあります。

そのような現実に直面したとき、人は神に問いかけます。なぜこのようなことが起こるのか、なぜ神は沈黙しておられるのか、なぜ神は助けてくださらないのかという問いが心の中に生じるのです。

この問いそのものは決して悪いものではありません。聖書にもそのような叫びは数多く記されています。

 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。(詩篇22篇1節)

しかし、その問いに対してどのような結論を出すかによって、その後の人生は大きく変わるのです。

ある人は苦難の中でも神を信頼し続けますが、別の人は失望を積み重ね、その失望を神への不満へと変えていきます。

そして、不満が解決されないまま心の中に蓄積されると、やがて不信へと変わり、最後には神そのものを否定するところにまで至ることがあります。

 

3 神への信頼が試されるとき

聖書には、苦難の中でも神への信頼を守った人物が数多く登場します。その代表的人物がヨブでした。

ヨブは財産を失い、子供たちを失い、さらには自らの健康までも失いました。それにもかかわらず、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)と告白し、神を否定する道を選びませんでした。

もちろん彼は苦しみましたし、自らの苦難の意味を理解できずに悩みました。しかし、その苦しみの中にあっても、神との関係そのものを断ち切ることはありませんでした。

ここで重要なのは、苦難そのものが人を神から離れさせるわけではないということです。

同じ苦難に直面しても、神への信頼を深める人もいれば、神への不信を深める人もいます。その違いは苦難の大きさではなく、神との関係の持ち方にあります。

神への愛と信頼が保たれているならば、人は理解できない出来事の中でも神を求め続けます。

しかし神への愛が冷え、信頼が弱くなれば、同じ出来事が神への不満や反発を生み出す原因となります。

したがって、神への否定は突然現れるものではなく、神との関係が少しずつ失われていく過程の中で形成されていくのです。

 

4 文明もまた神への信頼を失う

この現象は個人だけに起こるものではありません。世界が一人の人間のような組織社会であるならば、個人に起こることは文明全体にも起こります。

キリスト教は本来、神への愛を中心として出発しました。初代教会の信徒たちは、迫害の中にあっても神を愛し、隣人を愛し、その信仰を守り続けました。

その姿は多くの人々を感動させ、キリスト教は世界へと広がっていきました。

しかし歴史が進むにつれて、教会はしだいに制度化し、権力化し、本来の精神が弱まる場面も生じるようになりました。

もちろん歴史上のすべての教会がそうであったわけではありません。しかし全体として見れば、人々が期待していた神の愛や正義を十分に示せなくなった時代があったことも事実です。その結果、人々の中に失望する者たちが現れました。

神を信じてきたにもかかわらず救われない現実や、教会が存在しているにもかかわらず不正がなくならない社会、さらには神の愛が語られているにもかかわらず苦しみが続く状況を目の当たりにしたとき、人々の心には失望が蓄積されていきました。そしてその失望は、やがて神への不信へとつながっていったのです。

 

5 共産主義の起源を理解するために

共産主義は突然歴史に現れた思想ではありません。それは神への信仰を土台としてきた文明が、その信仰を失っていく過程の中で生まれた思想でした。

もちろん共産主義の発生には経済的要因や社会的要因も存在しますが、それらだけで神の否定が生まれるわけではありません。

その背後には、神への不信というさらに深い精神的要因が存在していました。そして神への不信は、神への愛と信頼の喪失から始まるのです。

この点において、一人の人間が神から離れていく過程と、キリスト教文明が共産主義を生み出していく過程は驚くほどよく似ています。

だからこそ、共産主義の起源を理解するためには、まず人間の心の中で何が起こるのかを理解しなければならないのです。

本シリーズでは今後、一神教はなぜ無神論を生み出すのか、なぜ神への愛が神への怨みへ変わるのか、そして、なぜ神を否定する思想が世界を席巻するようになったのかについて、聖書と歴史の両面から考察していきます。

そしてその過程を通して、共産主義の起源だけでなく、私たち自身の信仰がどこへ向かっているのかについても考えていきたいと思います。

 

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