1 水の上を歩くという奇跡
マタイによる福音書14章には、イエスが湖の上を歩かれた有名な場面が記されています。そのとき弟子たちは恐れ、「幽霊だ」と叫びました。
しかしイエスは、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイ14章27節)と語られました。するとペテロは次のように答えます。
「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」(マタイ14章28節)
そしてイエスは「おいでなさい」と言われました。ペテロは舟から降り、水の上を歩いてイエスのところへ向かっていきました。
この場面を読むと、多くの人は「奇跡」に注目しますが、この出来事は単なる超自然現象ではありません。ここには、信仰と主体性の関係が極めて象徴的に示されています。
特に重要なのは、ペテロが歩こうとしたのではなく、実際に歩いていたという点です。聖書は明確に「水の上を歩いてイエスのところへ行った」(マタイ14章29節)と記しています。
つまりペテロは、一瞬でも本当に水の上を歩いていたのです。ここにまず注目しなければなりません。
ペテロは不可能を可能にする世界に、実際に足を踏み入れていました。そしてその出発点となったのは、自分自身の能力ではなく、「おいでなさい」というイエスの言葉でした。
2 ペテロはなぜ歩くことができたのか
この出来事において、ペテロを支えていたものは何だったのでしょうか。それはイエスの言葉です。
ペテロは自分の力を信じて水の上を歩いたのではありません。「イエスが命じられたなら歩ける」という基準に立っていました。
つまり彼は、自分自身ではなく、神の言葉に基づいて行動していたのです。ここに信仰の本質があります。
信仰とは、単なる精神力や楽観主義ではありません。また、「自分ならできる」と思い込む自己暗示でもありません。信仰とは、神の言葉を基準として立つことです。
ヘブル人への手紙11章1節は、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と定義しています。
ペテロが水の上を歩けたのは、目に見える状況ではなく、イエスの言葉という見えない基準に立っていたからです。
この意味において、ペテロはこの瞬間、極めて強い主体性を持っていました。周囲の状況を見れば、水の上を歩くことなど不可能です。
しかし彼は、環境ではなくイエスの言葉を基準として行動しました。そこに主体性があります。
主体性とは、自分勝手に生きることではありません。どこに判断基準を置くかという問題です。
ペテロは最初、神の言葉を基準として立っていました。だからこそ、通常の常識や環境条件を超える歩みが可能になったのです。
3 風を見た瞬間に起こったこと
しかしその直後、聖書は次のように記しています。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。(マタイ14章30節)
ここで重要なのは、「風が吹いた」ことではありません。湖の上ですから、最初から風は吹いていたはずです。つまり問題は、環境の変化ではなく、ペテロの視線の変化です。
最初、ペテロはイエスを見ていました。神の言葉を基準としていました。しかし途中から、彼は風を見るようになりました。すなわち、外的状況へと意識を移したのです。この瞬間、彼の内面で判断基準の移動が起こりました。
それまでのペテロは、「イエスが命じられたなら歩ける」という基準に立っていましたが、風を見た瞬間に「本当に歩けるのか」「こんなことは不可能ではないか」という考えが入り込んできます。
ここに疑いが生まれます。このときの疑いとは、単に神の存在を否定することではありません。神のみ言に基づいて立っている自分を疑うことです。
ペテロは、水の上を歩けなかったから沈んだのではありません。すでに歩いていました。
問題は、外的環境を見ることによって、イエスのみ言に対する信仰が揺らいだことにあります。
そして、神のみ言を基準として立っていた主体性もまた、その信仰とともに揺らいでしまったのです。
4 誘惑とは主体性を失わせる働きである
この出来事は、本シリーズで扱ってきた「誘惑」の本質を非常によく表しています。
多くの場合、誘惑は「悪いことをしたくなる気持ち」として理解されますが、聖書的に見れば、その本質はもっと深いところにあります。
誘惑とは、人間の判断基準を神のみ言から別のものへと移動させ、主体性を失わせる働きなのです。
創世記3章において、エバは蛇の言葉によって判断基準を移動させました。本来は神のみ言を基準として立つべきでしたが、神に尋ねることなく蛇の言葉を受け入れ、その結果として堕落が始まりました。
ペテロの場合も同じです。最初はイエスの言葉を信じ、そのみ言に基づいて水の上を歩いていましたが、途中から風を見るようになり、外的環境によってイエスのみ言に対する信仰が揺らぎました。
その結果、神のみ言を基準として立っていた主体性もまた失われてしまったのです。ここに誘惑の働きがあります。
誘惑とは、神のみ言そのものを最初から完全に否定するのではなく、「本当に大丈夫なのか」「現実を見たほうがいいのではないか」という形で、人間の判断基準を少しずつ神から別のものへと移していくのです。
そして、その結果として、人は環境や恐れ、他者の評価、常識や時代の空気に左右されるようになります。神のみ言を基準として立っていた主体性が次第に失われ、内面は揺らぎ始めます。
この意味において、誘惑の目的は単に人を悪い行いへと誘導することではありません。神との関係を揺るがし、人間が神ではなく別のものを判断基準として生きるようにすることにあります。
だからこそ、誘惑に対する真の克服とは、外的環境を取り除くことではありません。どのような状況にあっても、神のみ言を基準として立ち続けることです。
そして、そのような歩みの中でこそ、人間の主体性は守られ、神と共に歩む信仰もまた保たれていくのです。
5 現代人もまた「風」を見ている
このペテロの姿は、現代社会に生きる私たちの姿そのものです。
現代人は常に「風」を見ています。SNSの評価、世間の空気、経済的不安、将来への恐れ、人間関係、ニュース、専門家の意見――そうした外的情報によって、判断基準が絶えず揺さぶられています。
もちろん現実を見ること自体が悪いわけではありません。しかし問題は、それが最終的な基準になることです。
本来、人間は神のみ言を基準として立つべき存在なのですが、現代社会では、多くの人が環境によって与えられた基準をもとに物事を判断しています。
「状況が悪いから無理だ」「周囲が反対しているからやめよう」「失敗するかもしれないから動けない」――このようにして、人は少しずつ主体性を失っていきます。
すると、外面的には生きていても、内面的には主体性を失い始めます。恐れに支配され、環境に振り回され、自分がどこへ向かうべきか分からなくなっていきます。
この意味において、ペテロが沈んだ出来事は、単なる過去の奇跡物語ではありません。現代人の霊的状態を映し出す象徴的な場面なのです。
6 真の信仰とは何か
では、真の信仰とは何でしょうか。それは、嵐が存在しないことではありません。風が吹かなくなることでもありません。信仰とは、風が吹いていても、なお神の言葉を基準として立ち続けることです。
ペテロは一度、その場所に立ちました。実際に水の上を歩いていました。つまり、人間は神の言葉に基づくとき、本来の限界を超える歩みへと導かれる存在なのです。
そして自分を信じるとは、この意味において理解されなければなりません。それは単なる自己肯定ではありません。「神の言葉に基づいて立っている自分」を信じることです。
この主体性を保つとき、人は環境に支配されません。恐れによって信仰が揺らぐこともありません。なぜなら、その基準が外部ではなく、神との関係の中にあるからです。
ペテロはその後、復活のイエスと出会い、再び立ち上がりました。沈んだことが彼の終わりではなかったのです。
イエスはあらかじめ、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章32節)と語っておられました。
神のみ言に立ち返るならば、たとえ一度倒れたとしても、再び立ち上がり、歩み始めることができるのです。
この意味において、ここに示されたペテロの姿は、挫折と回復を繰り返しながら、神のみ言を基準として主体性を確立していく信仰の歩みそのものを象徴しています。

