これまで見てきたように、聖書は決して先祖を敬うことや家族の歴史を重んじることを否定していません。
むしろ、旧約から新約に至るまで、信仰は常に「個人」だけでなく、「家族」「家系」「歴史」という連続性の中で語られてきました。
ところが、近代以降の西洋キリスト教は、信仰と救いをほとんど完全に「個人の内面の問題」として再構成してきました。
その結果、聖書が本来持っていた「歴史性」「継承性」「家系性」という視点は、神学の周縁へと追いやられていったのです。
1.初代教会は「個人主義的宗教」ではなかった
キリスト教が誕生した初代教会において、信仰は決して「私と神との内面的関係」だけに閉じたものではありませんでした。
殉教者や信仰の先人たちの歩みは、信仰の模範として教会共同体の中で大切に受け継がれ、敬虔に追憶されていました。
カタコンベ(地下墓所)には、亡くなった信徒の信仰の歩みを伝える碑文や象徴が残されており、彼らを「信仰の証人(あかしびと)」として仰ぎ見ることが、信仰生活の自然な一部でした。
これは死者を礼拝する行為ではなく、信仰の歴史の中に自分を位置づける態度です。
ヘブル書が語る「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから」(ヘブル12:1)という言葉も、信仰が歴史の連続性の中で生きるものであることを、強く示しています。
2.旧約的世界観は「家系」を単位に信仰を語る
そもそも旧約聖書において、信仰は徹底して「家系的」に語られています。神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてご自身を啓示され、祝福もまた個人ではなく「家系」に向けて与えられました。
「父の家」(創世記12:1)という概念が示すように、イスラエルの信仰世界は、最初から父系的家族共同体を単位として構成されていたのです。
ここでは、「誰が信じたか」だけでなく、「どの系譜に属しているか」「どの歴史を継いでいるか」が信仰の自己理解と深く結びついていました。
この構造は、日本を含む東洋文化の「家」意識と驚くほどよく似ています。
3.欧米型キリスト教が切り落としたもの
ところが、近代西洋で形成された神学は、信仰と救いを「個人の内面の決断」に極端に集中させていきました。
これは宗教改革以降の歴史の中で、ある意味では必然的な展開でもありましたが、その過程で、聖書のもつ「家系」「歴史」「継承」という視点は、ほとんど神学の中心から姿を消してしまいました。
その結果、キリスト教は次第に、①救いは個人単位で完結する、②信仰は基本的に個人の内面の問題である、③家族や家系の問題は信仰とは本質的に別領域であるという前提を、ほとんど自明のものとして抱え込むようになります。
しかし、これは本当に聖書全体の世界観と一致しているのでしょうか。
4.東洋的世界観は「非聖書的」なのか
日本や中国、韓国の文化は、個人よりも「家」や「系譜」「歴史の連続性」を重んじる傾向を持っています。
これがしばしば「個人の信仰を妨げるもの」「キリスト教と相容れないもの」と見なされてきました。
しかし、ここまで見てきたように、むしろこの感覚のほうが、旧約的・初代教会的世界観には近いのです。
問題なのは、「家」や「先祖」を重んじることそのものではありません。
問題になるのは、それらを神の代わりに拝し、救いや加護を求める対象にしてしまうことです。
この区別を曖昧にしたまま、「少しでも偶像崇拝に見えるものはすべて避ける」という姿勢を取ってしまったことが、日本文化とキリスト教の間に深い誤解を生みました。
5.信仰は本来、歴史の中で継承されるもの
聖書の信仰は、決してその場限りの個人的決断で完結するものではありません。
それは、歴史の中で受け継がれ、家族の中で伝えられ、世代を超えて継承されていくものです。
「父と母を敬え」という戒めも、単なる道徳規範ではなく、歴史の継承を前提とした信仰構造の中にあるものです。
6.ここから浮かび上がる、より根本的な問い
ここで、ひとつの非常に根本的な問いが浮かび上がってきます。
もしキリスト教の救いが本当に「堕落以前の状態への復帰」だとすれば、なぜ「救われたとされる親」から「罪のある子ども」が生まれ続けるのでしょうか?
現在のキリスト教神学では、救いは基本的に「個人の霊的状態の回復」として理解されています。
そのため、親が救われても、子どもは親と同じように罪人として生まれ、その子どももまた、同じように贖罪と回心を必要とするという構造が、ほとんど疑問視されることなく受け入れられています。
しかし、もし救いが本当に人間存在そのものの回復であるなら、この構造はどこか根本的におかしいのではないでしょうか?
7.次に問われるべきテーマ
ここに、欧米型キリスト教の「個人主義的救済観」が持つ、きわめて重大な神学的限界が現れています。
次の記事では、この問題――なぜ「救われた親」から「罪ある子」が生まれ続けるのか、それは実は「救い」が完成していないことを意味するのではないかという問い――を正面から取り上げ、「家系的救済」「歴史的回復」という視点から、聖書の救済観そのものを根本から問い直すことにします。

