第3章 地上の生と疾病の治療
1 地上の生が地獄に
私たちの目には見えなくても、一日一日が過ぎるたびに、大勢の人たちがむごたらしく死んでいきます。この姿を父母の立場でご覧になる神様は、悲痛な気持ちを抑えられないまま、長い嘆息の歳月を送ってこられました。
誰が何の罪を犯したのか、どのように生きてきたのか、全く見分けのつき難い大勢の人たちが並んで散在しています。目が取れた人、足を切られた人、口がゆがんだ人、五臓の病んでいない所が一つもなく、はらわたが裂けて流れ落ちた人、手の節々がすべて曲がったり、ゆがんだ人、目の玉が飛び出した人、腕がついていても、それが腕ではなく棒のような人、髪の毛がすべて抜け、頭が裂けた人、足がくっついて歩けない人、足があっても曲がって足の役割を果たせない人などなど、どうして言葉や文章で表現できるでしょうか!
このように残忍でむごたらしい姿は、ほかでもない、神様の子女たちの姿です。彼らは、サタンに蹂躙されて病気になり、その霊魂が壊れたまま、この国に来てとどまるようになったのです。その子女たちをただ見つめなければならない神様の心情は、いかなるものでしょうか。
神様のこのような心境は、どのようなものでも慰めることはできず、表現することもできません。もし皆さんの子女がこのような姿で現れたと仮定するとき、皆さんの心情はどうだろうかということを考えてみなければなりません。これが今までサタンであるルーシェルが引き起こした結果です。
なぜこのようになるまで、神様は耐え、待つだけだったのかを考えてみなければなりません。なぜこのようにされたのでしょうか。なぜご覧になるだけだったのでしょうか。神様は、なぜこんなに残忍で無情であられたのでしょうか。子女の悲惨な現場を見せ物として、展示場のように放置なさったのでしょうか。私たちは、このような悲運の歴史の痛みを感じて、何をどのようにすべきかを決断しなければなりません。
数千年のこの上なく長い歴史の中で、天のお父様の名と共にある子女らしい子女が現れることを待ち望んできた歴史が復帰摂理歴史です。誰がこの歴史を復帰するのでしょうか。誰がこの人類を救済するのでしょうか。誰がこのむごたらしい現状を処理するのでしょうか。皆さんは、神様と真の父母がこの惨事をもう一度整理なさらなければならないことを、肝に銘じなければなりません。この点を深く考えなければならないのです。皆さんの実の子がこのような姿で皆さんの懐に帰ってきたとき、どのような心情で治療するでしょうか。その心情の前に、神様の前に、真の父母の前に、贖罪の祭事を捧げなければなりません。
きょうの題目は、「地上の生が地獄に」と定めました。今からは、本当に地上から地獄に行く生活を断絶しなければなりません。地上において、誤った生活は残らず整理して霊界に来なければなりません。ここに来れば、治療薬もなく、治療してくれる人もいません。地上には医者もいて、病院もあり薬もあるのは、地上ですべてのものを治療して来なさいという意味です。ここ霊界に、神様と真の父母様に治療薬があると思ってはいけません。
ここは値引きがありません。自分の妻も、自分の夫も、自分の父母も、自分の子どもも、天法に引っ掛かれば、互いに見逃すことができる所ではないのです。天道はどうすることもできません。「ああ、私は冬が嫌いだ、早く春よ来い」と皆さんが叫んだからといって、春が来るでしょうか。これが神様の創造の法則です。生の方向は私たちが自ら定めるのです。自分が定めた道は、自ら責任を負い、自ら解決しなければなりません。それ以外にはどんな方法も薬もありません。
結論的に言えば、人間は、地上で生きていた生活そのままの姿で、霊界に行って永遠に暮らすようになっています。地上で誤って生きていた姿で、そのまま急に霊界に行く場合もあるでしょう。ですから、皆さんは、地上で様々な次元で平素の生活をいつも整理し、また反省しながら暮らさなければなりません。
どこの誰が、地上から天の国に行く日を知って生きていたでしょうか! ですから、皆さんは、あした天の国に行くとしても、恥じることなく行くという確固たる姿勢を持ち、すべてのことを、その日その日にきれいに整理しながら暮らさなければなりません。
その整理と生活の基準は「原理」のみ言です。そして、霊界は間違いなく存在するという事実、罪を犯せば、皆さんの子孫が罰を受けるという事実を肝に銘じ、神様は生きていらっしゃるので、神様の前にどのように、何を持っていくかを肝に銘じながら生きなければなりません。(1999年3月17日)
李相軒先生が霊界から送ったメッセージ『人類の犯罪者ルーシェル』より抜粋