1.なぜ創世記の3章は誤解されてきたのか
創世記の3章に記された堕落の物語は、多くの人にとって「善と悪の戦いが始まった場面」「宇宙に悪が誕生した瞬間」と理解されています。
そのため、創世記の3章が善悪二元論の起点であるかのようなイメージが強く定着してきました。
しかし、この理解は聖書全体の構造や創世記の文脈から見たとき、決定的に誤っています。
創世記の3章は、善と悪という二つの永遠の原理が誕生した物語ではなく、本来は善しか存在していなかった世界が逸脱した出来事として描かれているのです。
2.本来の創造には悪は存在しなかった
創世記の1章から2章において、聖書は創造の善性を繰り返し強調しています。
そこには最初から善と悪が共存していたという考え方は見られません。聖書は創造の完成について次のように語っています。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記1章31節)
この聖句が示すように、創造の本来の状態は完全な善であり、悪は創造構造の一部として存在していたのではなく、後から生じた異常な状態として理解されます。
つまり、多神教的世界観に見られる、「最初から善と悪が共存していた」という前提とはまったく異なり、聖書は、創造の時点で善のみが存在していたと語っているのです。
3.「善悪を知る木」の誤解―善と悪の知識ではない
多くの人が、善悪を知る木を「善と悪についての知識そのもの」と理解してしまいます。
しかし、ヘブライ語原文を見ると、「善悪を知る」とは単に善と悪についての知識を得ることではありません。
ここで用いられている「知る(yada)」は、主体的に関与し、判断を下すことを意味し、「善と悪(tov va-ra)」は価値判断の全領域を指す表現です。
したがって「善悪を知る」とは、善悪の基準そのものを自分自身で定めようとすること、すなわち神の権威から独立しようとする姿勢を意味します。
創世記の3章は、悪という独立した原理が誕生した場面ではなく、人間が神の基準から離れ、自律しようとした出来事を描いているのです。
4.堕落とは「悪という別原理の誕生」ではない
創世記の3章で描かれているのは、善と悪が並び立つ二元世界の成立ではありません。聖書は堕落の結果について次のように語ります。
ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ人への手紙5章12節)
ここで描かれているのは、神との関係から切り離された結果として生じた欠如状態であり、悪が神と同等の存在として誕生したことではありません。
聖書の理解では、悪は本質的な実体ではなく、善の欠如や歪みとして扱われます。
つまり、悪とは独立した存在ではなく、神との断絶によって生じた異常な状態にすぎないのです。
5.光と影の関係が示す決定的な違い
この点を視覚的に理解するために、「光と影」の関係を考えることができます。
影とは、実体として独立して存在するものではありません。影は“光が存在していない状態”であり、光を離れて単独で存在することはできません。
影が生じるためには、必ず光の存在が前提にあり、影そのものに固有の力や本質があるわけではないのです。
「光があるから影がある」と聞くと、多神教や善悪二元論では、そのまま光を善、影を悪に対応させてしまいがちですが、これは決定的に誤った理解です。
影は光の欠如によって生じる派生的現象にすぎず、独立して存在する実体ではありません。
ところが善悪二元論は、悪が光(善)から離れても単独の原理として存在し得るものとしています。
もし悪が独立して存在できるなら、善と悪は永遠に対立し続け、決して解消されず、根絶は不可能です。
しかし創世記の3章は、悪を実体としてではなく、本来の善から逸脱した状態として描いており、独立原理ではないことを示しているのです。
この理解こそ、聖書が善悪二元論とは異なる方向性を持つ決定的な根拠となります。
6.なぜこのような理解が重要なのか
もし創世記の3章を「善と悪という二つの永遠の原理の対立」と理解してしまうと、結論は多神教と同じになります。
すなわち、悪は永遠に存在し続け、根絶できず、世界は調和や均衡によって維持するしかないという世界観です。
しかし聖書はまったく異なる結論を提示します。聖書は終末について次のように語っています。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21章4節)
悪が善の欠如状態であるなら、その克服は「悪を抑え込むこと」ではなく、欠けていた神との関係が復帰されることによって実現します。
太陽が天頂に達し、その光が真っ直ぐに照らされるとき、物体の影が消えるように、神と人との関係が完全に復帰され、神の愛を完全に受けることができる状態になったとき、悪はその存在根拠を失うのです。
この復帰とは、人間が神と垂直に結ばれ、神の意志と愛を全面的に受け取る状態、すなわち創造本来の関係性への復帰を意味します。
7.結論:創世記3章は希望の前提である
創世記の3章は、善と悪という二つの原理が誕生した物語ではなく、神によって完全な善として創造された世界が、人間の選択によって逸脱した出来事を描いています。
したがって、創世記の3章は悪の起源神話ではなく、悪の終焉が可能であることを示しているのです。
悪が本質ではなく欠如であるからこそ、悪は根絶可能であり、最終的に善のみが残り、完全な救いが語られるという聖書の目的論的希望が成立します。
この理解は、本シリーズ全体を貫く核心であり、創世記の3章を正しく理解するうえで欠かせない視点です。

