1.本シリーズの視点―批判ではなく理解と比較
本シリーズ全体を通して強調してきたことは、多神教を単純に批判することが目的ではないという点です。
多神教には、調和や共存といった価値が存在し、平時の社会において一定の安定をもたらしてきた側面があります。
また、自然界の循環や多様な価値観を受け入れる柔軟性が、多神教的世界観に根付いていることも事実です。
したがって、多神教を表面的に否定することは、本質的議論にはつながりません。
重要なのは、それぞれの世界観がどのように善と悪を理解し、その理解が、人間の生き方や社会のあり方にどのような結果をもたらすのかを分析することです。
世界観は単なる思想的装飾ではなく、人生観、倫理観、政治思想、家族観、教育、社会構造に深く影響を及ぼします。
どのような前提を持つかによって、人間が何を目指し、どのように生きるのかが根本から変わるのです。
2.世界観が生み出す人間の生き方の結果を分析する
多神教的世界観では、善と悪が初めから共存しているという前提が存在します。
そのため、人生や社会の目的は、対立する力のバランスを整え、均衡を維持することに置かれます。
この世界観は、環境に適応しながら調和を保つ生き方を促し、変化よりも維持を重視する傾向を生み出します。
問題が発生しても、それは循環の一部として理解され、根本的解決ではなく、調整によって対応することが多くなります。
そして、この構造のもとでは、悪が永遠に存在することが前提となっているため、救いは恒久的解決を意味しません。
人生の目的は最終的完成ではなく、循環の中で役割を果たすことにとどまり、希望のあり方も限定的なものになります。
表面的には安定しているように見えても、その背後には「悪はなくならない」という諦念(あきらめの思い)が存在し、人生の深い意味や究極的目的を提示しにくいという限界が生じます。
3.聖書の創造原理がもたらす決定的特徴
これに対して聖書は、創造の時点において悪は本来存在しなかったと宣言します。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記1章31節)
この聖句は、聖書の世界観における根本前提です。悪は神によって創造された構造的要素ではなく、後から生じた異常な状態、すなわち堕落という出来事の結果として理解されます。
この前提が決定的に重要なのは、聖書が悪を本質ではなく逸脱として規定することによって、悪の根絶可能性が開かれるからです。
悪が世界の構造そのものに組み込まれていない以上、創造本来の状態への復帰が可能となり、歴史は循環ではなく、目的をもった復帰と完成へと向かう流れとして理解されます。
4.聖書が語る三つの核心――根本的解決・完全な救い・悪の終焉
聖書は、創造原理に基づき、他の宗教では語ることのできない三つの核心を提示します。
第一に、根本的解決を語ることができます。悪が後発的に生じた逸脱であるならば、その原因を正し、創造本来の状態を復帰することが可能となります。
第二に、完全な救いを提示できます。救いとは単なる精神的慰めや均衡の復帰ではなく、神との関係の完全な復帰、創造目的の実現を含むものであり、完成を目指す方向性を持ちます。
第三に、悪の終焉を語ることができます。「先のものが、すでに過ぎ去った」(黙示録21章4節)と示されるように、終末において悪が完全に滅び、新しい創造が実現する未来が明確に描かれます。
このような終末における希望は、一神教の核心であり、信仰者の人生に意味と方向性を与える根本的支柱となっています。
5.一神教が内包する重大な課題―基準が神から人間へ移るとき
しかし同時に、ここで一つの重要な注意点を指摘しておく必要があります。
一神教は、善と悪の判断基準を神に置くことによって初めて、その秩序と希望を保ちます。
ところが、この基準が神ではなく人間に移されたとき、一神教は本来の姿を失い、むしろ多神教以上に混沌と争いを生み出す危険性を内包することになります。
善悪の判断を人間自身が握った瞬間、「唯一の正義」を自称する人間や集団が生まれ、自らを絶対化し、異なる立場を持つ他者を悪と断じる構造が生じます。
このとき一神教は、神中心の倫理ではなく、人間中心の権力装置へと変質してしまいます。
これこそまさに創世記の3章が描く堕落の状態であり、人間が神に代わって善悪の基準を握ろうとした結果です。
歴史において、一神教が暴力や排他性と結びついた事例が存在するのは、神の名を用いながら、実際には、神ではなく、人間が善悪の基準となってしまったからにほかなりません。
これは聖書的世界観そのものの帰結ではなく、その逸脱の結果です。
6.結論―世界観が人生を決定する
本シリーズを通して明らかになったのは、善と悪の理解に関する前提だけでなく、その判断基準をどこに置くかが、人生の目的、社会の構造、希望のあり方に決定的影響を与えるという事実です。
多神教的世界観は、調和や共存という価値を持ちながらも、悪の永続性を前提とするため、根本的救いを提示することができません。
一方、聖書は創造原理に基づき、根本的解決、完全な救い、そして悪の終焉という究極的希望を語ります。ただし、それは、善悪の基準を神に置き続けるという前提のもとにおいてのみ成立します。
したがって、本シリーズの焦点は多神教批判ではなく、世界観の本質がどのような結果を生み出すかという比較にあります。
私たちがどの世界観を採用するか、そしてその基準をどこに置くかによって、人生の意味や社会の方向性は大きく変わります。
その前提を深く理解し、意識して選び取ることが最も重要な課題なのです。

