※本シリーズでいう「欧米型キリスト教」とは、近代以降の欧米社会において形成された神学的・制度的・文化的キリスト教を指します。
1.私たちが知る「キリスト教」の正体とは?
日本で一般に思い浮かべられる「キリスト教」は、教会堂のデザイン、礼拝形式、讃美歌、クリスマス文化、宣教師の姿、そしてヨーロッパ絵画に描かれた白人のイエス像など、多くの場合、欧米文化を媒介として受け取られたものです。
しかし、聖書を読んでいくと、そこに記されている信仰の原型は、これらの欧米的イメージとはしばしば大きく異なっています。
そのため、自然と次のような問いが生じます。
私たちが“キリスト教”と思い込んできたものの多くは、本当に聖書が教える信仰と一致しているのか?
この問いは、聖書理解の核心に迫るための出発点となるものです。本シリーズは、この視点から考察を始めていきます。
2.聖書の舞台は中東世界であって西洋ではない
創世記におけるアブラハムの召命は、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12章1節)という、極めて具体的かつ歴史的な呼びかけでした。
旧約聖書は中東の家族制度、共同体構造、部族社会を背景として展開し、新約聖書におけるイエスの宣教もまた、律法によって共同体の秩序を守ろうとする力と、その秩序の外に追いやられていた人々をどう受け入れるかという、ユダヤ社会内部の倫理的緊張関係のただ中で展開されていました。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」」(マルコ福音書1章15節)という言葉も、中東の具体的な歴史性の中で語られたメッセージです。
つまり、聖書は“西洋の宗教”ではなく、あくまで中東世界の歴史的な現実を前提とした啓示であることを理解する必要があります。
3.欧米文明が形成してきた“もう一つのキリスト教”
しかし、歴史が進むにつれて、キリスト教は中東の世界観から離れ、欧米文化の中に深く根付いていきました。
特に、次の三つの歴史的段階が、今日の「欧米型キリスト教」の形成に決定的な影響を与えています。
(1)ギリシャ哲学による二元論の浸透
パウロが用いたギリシャ語の語彙は、思想的には“霊と肉”の二元論を招き、救いが「魂の救い」へと狭められていく基盤となりました。
(2)ローマ帝国による制度化
キリスト教が国教化されたことで、教会は帝国の行政モデル(階層性・法制度)を取り入れ、信仰は制度化・法文化されていきました。
(3)中世〜近代ヨーロッパでの神学体系化
アウグスティヌス、トマス・アクィナス、宗教改革者らの神学的著作は、欧米の哲学・法思想・合理主義を基盤として形成され、聖書の世界観を西洋的カテゴリの中に収めていきました。
こうした歴史的経緯を経て、世界に広がったキリスト教は、事実上 “欧米文化で再構成されたキリスト教”となっていったのです。
4.聖書が示すのは“全人的・共同体的な信仰”である
聖書における救いは、魂だけではなく、身体や共同体、歴史全体を含むものとして語られています。
旧約聖書でも、神の契約は家系・民族・共同体と密接に結びついています。
そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 (創世記15章5節)
こうした身体性・共同体性・歴史性は、近代西洋が重視してきた「個人の内面的信仰」とは異なる次元のものです。
5.欧米型キリスト教の限界と誤解
欧米型キリスト教には、キリスト教そのものの限界ではなく、欧米文化の思想的枠組みの中で聖書を理解しようとしたことによる限界があります。
その結果、聖書が本来もっている全体的世界観が、十分に保持されない場面が生じました。
特に、欧米近代思想の影響のもとで、聖書の理解には次のような偏りが生じました。
第一に、救いが主に霊的・内面的な問題として理解され、聖書が語る身体的・生活的次元が相対的に軽視されました。
第二に、信仰が個人の内面決断として強調され、契約と共同体を中心とする聖書の人間観が弱まりました。
第三に、教義や制度として整理される過程で、聖書の物語的・象徴的広がりが失われていきました。
これらは聖書を否定した結果ではありません。むしろ、聖書を真剣に理解しようとする中で、欧米文化の思想的枠組みが無意識に重ねられた結果として生じた「文化的翻訳の偏り」と理解すべきものです。
6.東アジアから開かれる聖書回帰の視野
東アジア文化圏は、関係性・共同体性・身体性・歴史意識を重んじるという特徴をもち、聖書の原初的世界観に近い感性を持つといわれています。
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 (申命記6章5節)
ヘブライ語で「心」と訳される語が、感情だけでなく思考や意志、行動を含む存在全体を指すように、聖書は身体と霊と行動が分離されない信仰を語っています。
これは、欧米型キリスト教が形成してきた“個人における内面中心の信仰”とは異なる視点であり、東アジアにおいて聖書回帰が可能である理由でもあります。
7.本シリーズの目的:批判ではなく“本質”への回帰
本シリーズの目的は、欧米型キリスト教を否定することではありません。むしろ、「聖書が語る信仰の本質とは何か」「文化の影響を超えて、イエスの福音そのものに立ち返るとは何か」という根本的問いに向き合うことにあります。
真理は、あなたがたに自由を得させるであろう(ヨハネ福音書8章32節)
この言葉は、文化的固定観念から解放され、神が意図された原初の福音を再発見するための招きでもあります。

