
(1)数理的に摂理なさる神
聖書のヨハネの黙示録では「六六六数」を語りました。「六数」はとても悪い意味になっています。私たちは七数へ行っては六数にきっかり合うのです。元来は、六数で創造を完了し、七数で完成して八数へ行こうとして、六数に落ち、堕落するようになりました。ゆえに「六数」に落ちたと計算することができます。七数というのは、「神聖であれ」という意味の数であり、また、「完成せよ」という意味の数です。
神が数理的に摂理なさるのは間違いありません。心情も数理的に実を結ぶし、犯罪も数理的に実を結びます。不平、不満を言う心で何数かが過ぎゆくようになれば、罰を受けるようになります。罪を犯したのに罰を受けない人がどこにいますか? 不安と苦痛で何数かを過ぎれば財産がなくなったり病気になったりします。これは、宇宙の法則です。数理的に見るとそうなのです。
心に不平と不満をもちながら一定の期間が過ぎたのちに、経済的に打撃を受けたり、何かとにかく驚くようなことが生じるようになっています。なぜならば、善と悪の判断をしなければならないからです。それを審判だとも言うことができます。驚くことというのは審判です。
つまらない考えをしている人は、そういうことに一度は遭うようになります。KAL機事件も世界がひどく驚くことをして、すぐに分かれたではありませんか? 奇跡というのは、驚きです。十災禍を見れば全部とても驚くようなことではないでしょうか?
十災禍の内容を分類して見れば、モーセとアロンが一緒に一回、アロン一人で二回、モーセ一人で、六、七、八、九の四回を行いました。そして、神お一人で四、五、十の三回を行われました。このように奇跡を行った主体が四種類に区分されるというのです。
パロの降伏は、聖書によれば四、七、八、十の四回でした。
災害の種類を大きく分ければ、三種類と見ることができます。まず一種類目は一、三、四、六、九という血を流すようにした災害です。五回にわたって血の災害を下したのですが、その内容は、ぶよ、あぶ、皮膚病、長子を打つこと、そして川の水を血に変えたことです。
二種類目は虫による災害です。このかえる(注:これが虫と言えるのか分からないが)と八のいなごという虫による災害を下しました。
三種類目は、五、七、九の天による災害すなわち、天災です。その内容は、家畜たちが病気にかかって死に、ひょうが降り、暗やみが地を覆ったことです。
以上のように奇跡の種類が四種類であることを知りましたが、その中にどのような意味があるかを調べてみます。
モーセとアロンが一緒に行い、アロンだけが行い、モーセだけが行い、エホバの神だけが行われたというのは、モーセとアロンとエホバの神の三人が分担してされたり、一緒にされたりもしたということです。
神は、私たちが神の仕事をなそうとすれば、私たちと一緒にされたり、またご自身がお一人でされたりするのです。このことから、天が私たちに、あることを任せたからといって私たちだけですべてをするのではない、ということを学ぶことができます。(『聖書の中の心情圏』p128「数理的に摂理なさる神」より)
(2)解説
1 六数と七数―完成直前での逸脱
この教えによれば、本来の創造は、六数で創造が完了し、七数で完成し、さらに八数へと発展するという構造を持っていました。
しかし人間は、完成に至る直前の段階、すなわち六数の位置で堕落したと説明されます。そのため六数は、未完成、あるいは堕落に結びつく数として理解されるのです。
一方で七数は、「神聖であれ」「完成せよ」という意味を持つ数とされます。つまり六数は完成直前の分岐点であり、七数は完成と聖別を意味する段階として位置づけられます。
ここで重要なのは、堕落は無秩序に起こったのではなく、本来の成長段階の中で起こったと捉えられている点です。
2 数理的摂理―心情も結果も法則に従う
次に強調されるのは、「神は数理的に摂理される」という点です。
これは、神の働きが単なる感情や偶然ではなく、一定の法則性の中で展開されるという意味です。ここでは特に、人間の心情と結果の関係が数理的に結びついていると説明されます。
たとえば、不平や不満を持ち続け、その状態が一定の期間続くならば、やがて何らかの形で結果が現れるとされます。それは経済的な打撃や健康の問題、あるいは予期しない出来事などとして現れるというのです。
ここで言われているのは、単純な因果応報というよりも、内面の状態が時間の経過とともに結果として現れる構造です。したがって、心情もまた原理原則に従い、善も悪も一定の過程を経て実を結ぶという理解になります。
3 「驚き」として現れる審判
この教えでは、審判の現れ方にも特徴的な説明がなされます。それは、審判が「驚き」として現れるという点です。
人は通常、日常の流れの中で自分の状態を見失いがちです。しかし一定の期間が過ぎると、突然の出来事として結果が現れ、そのとき人は驚きます。この「驚き」こそが審判であると説明されます。
聖書の中の出来事も、この観点から理解されます。たとえばエジプトの十災禍は、いずれも人々に大きな驚きを与える出来事でした。
奇跡とは単なる不思議な現象ではなく、人間の状態を明らかにし、分岐を促す出来事として捉えられているのです。
4 十災禍に見る数理的構造
さらにこの教えは、十災禍そのものにも数理的な構造があると説明します。
まず、奇跡を行った主体は四つに区分されます。それは、モーセとアロンが共に行ったもの、アロンが単独で行ったもの、モーセが単独で行ったもの、そして神ご自身が行われたものです。
これは、神と人間の関係が固定されたものではなく、共に働く場合、人間に任される場合、神が直接行われる場合など、状況に応じて変化する協働関係であることを示しています。
また、災害の内容も複数の類型に分類されます。血に関わる災害、生物による災害、天による災害という区分がなされており、このように分類できること自体が、出来事が無秩序ではなく、一定の体系の中で起こっていることを示しています。
5 神と人間の協働構造
この教えの結論は、神と人間の関係の理解にあります。
神はすべてを一方的に行われるのではなく、人間と共に働かれる場合もあり、人間に任せられる場合もあり、また神ご自身が直接行われる場合もあるという構造を持っています。
したがって、神の働きは「神だけ」でも「人間だけ」でもなく、両者の関係の中で展開されるものです。
ここから学ぶべきことは、神から任されたことがあるからといって、それがすべて人間の力だけで行われるのではないという点です。同時に、神が共におられるからといって、人間の責任がなくなるわけでもありません。
まとめ
本稿で見てきたように、「数理的に摂理なさる神」という教えは、神の働きが偶然ではなく、秩序と法則の中で展開されることを示しています。
六数と七数は成長段階と完成の構造を示し、心情と結果は時間を通じて結びつき、審判は「驚き」として現れ、歴史的出来事も数理的構造を持ち、神と人間は協働関係にあるという理解に至ります。
信仰生活とは、単に感情的に生きることではなく、このような秩序の中で自分の状態を見つめ、どの段階に立っているのかを自覚しながら歩むことです。
神の摂理が数理的であるということは、人間の生き方もまた無秩序であってはならないことを意味しています。
自分の内面、時間の使い方、関係の持ち方、そのすべてが結果へとつながる過程であることを自覚することが、信仰生活において重要と言えるでしょう。

