聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅱ―第1回 誘惑に対する勝利のモデル

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1 誘惑の克服という主題

第Ⅰ部において、創世記3章を通して、誘惑がどのような構造をもって人間に働くのかを見てきました。

そこでは、「疑い」「否定」「魅力」「自発的選択」という段階を経て、人間が誤った選択に至る過程が明らかにされました。

しかし聖書は、堕落の構造を示すだけで終わっていません。それに対する「克服の道」もまた提示しています。

その典型が、マタイによる福音書の4章に記されているイエスの試みの場面です。ここには誘惑に対する完全な勝利のモデルが示されています。

 

2 荒野における試みの意味

イエスは公生涯(30歳以降)を出発される前に、荒野において40日の断食をされました。その極限状態の中で悪魔の試みを受けられます。

この状況は偶然ではありません。荒野とは、旧約においてイスラエルが試された場所であり、人間の弱さが露わになる場です。

このことから、この場面は、イエスが何を基準として生きられるのかが試されると同時に、人間のあり方そのものを示しています。

その意味で、この試みは単なる個人的な出来事ではなく、「人間とは何か」「人間はどのようにして神に従うのか」という普遍的な問題を扱っています。ヘブル人への手紙4章15節にはこのようにあります。

 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。(ヘブル人への手紙4章15節)

イエスは人間の弱さの外側からではなく、その内側において試みを受けられました。だからこそ、この勝利は人間にとっての克服のモデルになるのです。

 

3 三つの試みの構造

この場面には三つの試みが記されています。

第一は、「石をパンに変えよ」という試みです。第二は、「神殿から身を投げよ」という試みです。第三は、「世界のすべてを与えるから拝め」という試みです。

一見すると異なる内容のように見えますが、これらはそれぞれ人間の根本的な欲求に対応しています。

すなわち、生存と欲求(食)、安全と保証(守られること)、支配と栄光(力と成功)という三つの領域です。これは、人間の内面に働く誘惑の典型的なパターンと言えます。

 

4 創世記との対照構造

ここで重要なのは、この三つの試みが創世記の3章の構造と対応しているという点です。

創世記においてエバは、「食べるに良く」「目に美しく」「賢くなるに好ましい」と判断しました(創世記3章6節)。

これに対してイエスは、同じように欲求・安全・価値に関わる試みを受けながらも、それに従われませんでした。

すなわち、エバは誘惑に従いましたが、イエスは誘惑に勝利されたという対照がここにあります。

このような意味で、マタイによる福音書4章は、創世記3章とは対照的なパターンを示していると読むことができます。

 

5 すべてに共通する対処の仕方

さらに注目すべきは、イエスの対処の仕方です。三つの試みに対して、イエスはすべて同じ形で語られています。

第一の試みに対しては「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4章4節)、第二の試みに対しては「『あなたの神である主を試みてはならない』とまた書いてある」(4章7節)、第三の試みに対しては「『あなたの神である主を拝し、ただ主に仕えよ』と書いてある」(4章10節)と語られました。

このように、イエスはすべての試みにおいて、「〜と書いてある」として、申命記のみ言をもって語られました。

すなわち、イエスは自らの感情や状況判断によってではなく、神のみ言を基準として語られたのです。この点が決定的に重要です。

つまり、エバはみ言を自分で判断する対象としましたが、イエスは、すべての判断をみ言に委ねられたのです。

前者が「み言を判断すること」であるのに対して、後者は「み言によって判断すること」です。この違いが誘惑を克服できるかどうかを決定します。

 

6 誘惑と克服の原理

誘惑は、単に意志の弱さによって起こるものではありません。それは構造をもって人間に働きかけます。

そしてその構造に対しては、対応する原理が必要です。イエスが示されたのはその原理です。すなわち、誘惑はみ言によってのみ断ち切られるということです。

ここで重要なのは、イエスが誘惑と議論をしていないという点です。また、自分の力で耐えようともしていません。ただ一つのこと、すなわち神のみ言に立つことによって勝利されているのです。

 

7 結論―勝利のモデルとしてのイエス

マタイによる福音書の4章におけるイエスの試みは、単なる模範ではありません。それは誘惑に対する勝利の原理そのものを示しています。

創世記において人間が失敗した構造を、イエスは完全に逆転されました。そしてその中心にあるのが、「み言を基準とする」という一点です。

ここに誘惑の克服の道があります。すなわち、人間が自らの判断に頼るのではなく、神のみ言に立つとき、初めて誘惑に対して真の意味で勝利することができるのです。

この視点をもって、次回以降、三つの試みを一つ一つ詳しく見ていきます。

 

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