「失敗したくない」「傷つきたくない」「間違えたくない」。こうした思いは、誰の心にもあります。
しかし、その恐れが強すぎると、人は一歩を踏み出すことができなくなります。
現代社会では、「慎重であること」「安全第一であること」が美徳とされるあまり、挑戦や冒険が抑えられる傾向があります。
その結果、「何も起こらないこと」こそ最良とする風潮が生まれました。
これはまさに、ゼロリスク信仰のもう一つの顔――“行動の麻痺”です。
しかし、聖書が語る信仰は、その正反対にあります。信仰とは、恐れを感じながらも、それを超えて歩み出すことでもあります。
「リスクを避ける生き方」ではなく、「神を信じて歩く勇気の生き方」なのです。
1.ギデオンの召し―「神が共にいる」から動く信仰
士師記に登場するギデオンは、神の召しを受けたとき、「わたしは最も小さい者です」(士師記6章15節)と辞退しようとしました。
しかし神は「わたしがあなたと共にいる」(同16節)と答えられました。ギデオンは恐れを持ちながらも、神の言葉を信じて行動しました。
「安全が確認されてから動く」のではなく、「神が共にいるから動く」――これが聖書的勇気の原型です。ゼロリスク信仰の「確認してから動く」姿勢とは、根本から異なります。
恐れは信仰を閉ざし、行動を止めます。信仰とは、失敗を恐れない心であり、「神が共におられる」ことへの確信です。
恐れは信仰を閉ざし、行動を止めます。信仰とは、失敗を恐れない心であり、「神が共におられる」ことへの確信です。
2.アブラハムの信仰―保証のない出発
旧約聖書のアブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。彼は神の言葉を受けて、生まれ育った地を離れ、見知らぬ地へ旅立ちました。
彼には、地図も保証もありませんでした。しかし彼は、神が導かれると信じて歩き出しました。創世記にはこう記されています。
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (創世記12章1節)
この言葉の中には、現代人が最も恐れるもの―「不確実な未来」があります。しかし、信仰とはまさにその不確実さの中で輝くものです。
アブラハムは、ゼロリスクを求めませんでした。彼は、神の言葉という“唯一の確信”を握って一歩を踏み出したのです。
私たちもまた、「完全な安全」を求める代わりに、「完全に信頼できる神」を求めるべきです。
3.ペテロの一歩―水の上を歩いた信仰
新約のペテロもまた、恐れと信仰の狭間に立った人物でした。
弟子たちが夜の湖で逆風に悩んでいたとき(マタイ福音書14章24節)、イエスが水の上を歩いて近づかれました。弟子たちは幽霊だと思って叫びましたが、ペテロはイエスと確認するとすぐに言います。
「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。(マタイ福音書14章28~29節)
しかし、強い風を見て恐れた瞬間、彼は沈み始めます。イエスは手を伸ばして彼を助け、こう言われました。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。(マタイ福音書14章31節)
この物語が教えるのは、「恐れは人を沈める」ということです。
信仰とは、波が静まるのを待ってから歩くことではありません。波の中で、神を見失わずに進むことです。ペテロが沈んだのは、恐れが信頼を上回った瞬間でした。
私たちもまた、恐れではなく信頼によって足を踏み出すとき、奇跡のような道が開かれていくのです。
4.信仰とは恐れの中で動く力
信仰を持つ人であっても、恐れがなくなるわけではありません。聖書の人物たちも、恐れを感じながら歩きました。
モーセは神の前で「わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト記4章10節)と訴えました。エレミヤは預言者に召されたとき、「わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(エレミヤ書1章6節)と言いました。
彼らは決して恐れを知らぬ英雄ではありませんでした。それでも歩み出したのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト記3章12節)という神の言葉があったからです。恐れながらも歩む――これが聖書的信仰の実像です。
しかし、恐れの中で止まるか、歩み出すか――そこに信仰の違いがあります。ヘブル人への手紙にはこう書かれています。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル人への手紙11章1節)
信仰とは、見える安全ではなく、見えない神の導きを信じることです。
「見える安全」に頼る人は、ゼロリスク信仰の道を歩きます。しかし、「見えない導き」に頼る人は、真の信仰の道を歩きます。
恐れを完全に消すことはできませんが、恐れに支配されないようにすることはできます。それが、「リスクを恐れず歩む信仰」の核心です。
5.結びに―「安全」ではなく「平安」を求めて
ゼロリスク信仰の人は「安全」を求めて歩みを止めますが、聖書の信仰者は「平安」を求めて歩み出します。
安全は外側の状態、平安は内側の状態です。安全は条件によって変わりますが、平安は信頼によって保たれます。
イエスは弟子たちに、世が与えるものとは異なる平安を約束されました(ヨハネ福音書14章27節)。それは外側の安全ではなく、神の臨在から来る内なる安定です。
リスクを避けることによってではなく、神を信じて踏み出すことによって、この平安は与えられます。
信仰とは、恐れのない人生ではなく、恐れに勝る平安を生きることです。
そして、その平安は、リスクを避けることでなく、神に信頼して行動する勇気の中に生まれます。
人は恐れをなくすことはできません。しかし、恐れよりも大きな信頼を選ぶことはできます。
それが、リスクを恐れず歩む信仰――神の導きを信じて前へ進む、聖書の生き方です。

