聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅲ―第2回 恐怖の起源

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1 恐怖は最初から存在していたのか

本シリーズにおいて扱う「恐怖」を正しく理解するためには、その起源を明らかにする必要があります。

人間は本来、恐れを持つ存在として創造されたのか、それとも後から恐れを持つようになったのか。この問いは、人間の本質を考えるうえで避けることができません。

創世記の記述によれば、人間が創造された直後の状態において、「恐れ」という感情は見られません。

アダムとエバは裸でありながら恥じることもなく、神の前にあって何も隠す必要がありませんでした。この状態は、単なる無知ではなく、神との関係において何の不安もなかったことを示しています。

したがって、恐怖は人間の本来の状態に属するものではなく、ある出来事を契機として生じたものと理解することができます。

 

2 恐怖の誕生―創世記における決定的瞬間

恐怖が初めて現れるのは堕落の直後です。それを示すのが次の聖句です。

 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。(創世記3章8~10節)

ここで注目すべきは、神の歩く音を聞いたときに人の心に恐怖が生じている点です。

本来、神の臨在は喜びであり、安心の源であったはずです。しかし堕落後の人間にとって、それは恐れるべきものへと変わりました。

この変化は単なる感情の変化ではありません。神との関係そのものが変化した結果として、恐怖が生じているのです。

 

3 恐怖の区別―本能的恐れと霊的恐れ

ここで注意しなければならないのは、恐れには性質の異なる二つのものがあるという点です。

一つは、危険に対して生じる本能的な恐れです。これは命を守るために与えられた、生きるうえで不可欠な反応です

この恐れがなければ、人は危険を回避できず、命を失うことにもなりかねません。

この意味において、本能的な恐れは創造に属するものであり、否定されるべきものではありません。

人間が危険を察知して身を引くことができるのは、命を守るためにこの機能が与えられているからです。

しかし創世記の3章において現れた恐れは、これとは異なる性質を持っています。それは外的な危険に対する反応ではなく、神の前に立てなくなったことから生じる恐れです。

アダムは神から逃げるために隠れましたが、そこに身体的な危険があったわけではありません。

この恐れは、神との関係が断たれたことによって生じた内面的な不安からくるものであり、存在そのものに関わるものです。

したがってここで問題となっているのは、恐れという感情そのものではなく、神から離れたことによって生じた恐れによって支配されている状態と言えます。

 

4 神との断絶と存在の不安

なぜ神から離れることが、このような恐怖を生み出すのでしょうか。その理由は、人間が本来、神との関係を根本として生きる存在だからです。

神との関係がしっかりと結ばれているとき、人間は自らの存在を問う必要がありませんでした。存在そのものが保証されていたからです。

しかしその関係が断たれたとき、人間は自らの存在を自分で支えなければならない状態に置かれます。その結果、人間の心には不安が生じるようになります。

自分は守られているのか、これからどうなるのかという不安が生じます。そしてその不安が、死への恐れや欠乏への恐れ、人から拒絶されることへの恐れなど、さまざまな恐怖として現れるのです。

したがって恐怖とは、単なる心理的な反応ではなく、存在の基盤が揺らいだ状態の表れと言えます。

 

5 自己中心と恐怖の関係

堕落の結果として起こったもう一つの重要な変化は、人間が自己中心的になったことです。

神を中心として生きていた人間は、自分自身を中心として生きる存在へと変化したのです。この変化は恐怖と密接に関係しています。

自分を中心として生きるということは、自らを自分を守らなければならないことを意味します。その結果、人は常に危険や不安を意識し、それに備えようとするようになります。

ここにおいて恐怖は単なる結果ではなく、自己中心的な生き方を強化する働きもします。

人は恐れるがゆえに自分を守ろうとし、その結果としてさらに自己中心的になり、恐怖を強めていくという循環に入るのです。

 

6 愛と恐怖の対立

この問題に対して、聖書は明確な対比を示しています。それは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」(ヨハネ第一4章18節)という言葉です。

ここで示されているのは、愛と恐怖は両立しないという事実です。恐怖があるところには完全な愛はなく、完全な愛があるところには恐怖は存在しません。

この聖句は、恐怖の本質を理解するうえで決定的です。恐怖とは単に何かを怖がる感情ではなく、愛が欠如した状態、すなわち神との関係における断絶の結果として生じるものなのです。

 

7 まとめ

以上の内容を総合すると恐怖の本質が明らかになります。それは単なる心理的現象ではなく、神から離れた結果として生じる霊的な状態ということです。

言い換えれば、恐怖は霊的症状です。身体に症状が現れるとき、その背後に原因があるように、恐怖という症状の背後には、神との関係の断絶という原因があるということです。

したがって、その根本原因に目を向けなければ、恐怖は形を変えて繰り返し現れ続けます。

そして、ここで問題としている霊的な恐怖は、生命を守るための本能的な恐れとは異なり、堕落によって神から離れ、自分自身を中心として生きるようになった結果として生じたものです。

次回は、この恐怖がどのようにして人間を支配する力となるのか、その具体的な構造について考察していきます。

 

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