聖書から見た共産主義の起源―第5回 神を失った文明は何を求めるのか

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1 人は信仰を失っても幸福を求める

本シリーズでは、一人の人間が神への期待を失い、その失望が不信となり、やがて神そのものを否定するようになる過程を見てきました。

そして、その過程は、一人の人間だけではなく、文明全体にも起こり得ることを考察してきました。

しかし、ここで一つ考えなければならないことがあります。それは、人は神への信仰を失ったとしても、幸福を求める心まで失うわけではないということです。

人は誰でも幸福を求めています。安心して生きたいと願い、苦しみから解放されたいと願い、自分も周囲の人々も幸せになってほしいと願っています。

信仰を持っていたときには、その幸福を神との関係の中に見いだしていました。神を愛し、神に愛され、その愛の中で隣人と共に生きることを喜びとしていました。

しかし、神を失ったとしても、人間は幸福への願いを捨てることはできません。

問題は、神に対する信仰を失ったあと、その幸福を何に求めるようになるのかということです。

 

2 神への愛が生み出した共同体

使徒行伝には、初代教会について次のように記されています。

 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。(使徒行伝2章44~45節)

初代教会の姿を見ると、人々が互いに助け合い、共同体を大切にしていたことが分かります。

しかし、ここで重要なのは、彼らが共同体そのものを目的としていたのではないということです。

彼らはまず神を愛していました。そして、神から受けた愛に感謝していました。その感謝が自然に隣人への愛となり、互いに助け合う生活として現れていたのです。

共同体も弱者への配慮も、互いに助け合う生活も、神への愛から生まれた実りでした。

そこには、神を愛する心が中心にあり、その愛が人々を一つに結び付けていました。

 

3 神を失っても理想は残る

人が神への信仰を失ったからといって、理想まで失うわけではありません。

弱い人を助けたいという思いも、公平な社会を築きたいという願いも、争いのない共同体を求める心も残ります。共産主義が多くの人々を引きつけた理由もここにありました。

そこには、貧しい人々を救いたいという願いがあり、不平等をなくしたいという思いがありました。人間同士が助け合う社会を築きたいという理想もありました。

しかし、神を失うと、それらの理想を支える中心もまた失われるのです。神への愛という土台を失った理想は、自らの力だけで理想社会を実現しようとする方向へ進むようになります。

人間は神への信仰を失っても、理想そのものを捨てることはできません。そのため、その理想は、しだいに神ではなく人間自身を中心とするものへと変わっていくのです。

 

4 幸福の基準は何に変わるのか

イエスは最も重要な戒めについて尋ねられたとき、次のように語られました。

 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ福音書22章37~40節)

ここには、人間の幸福の順序が示されています。まず神を愛することがあります。そして、その愛が隣人への愛となり、人と人との関係を豊かなものにしていきます。

しかし神を失えば、この順序が崩れるのです。それでも人は幸福を求め続けますが、その幸福を神との関係ではなく、物質的豊かさや競争や効率や損得によって測ろうとするようになります。

人生の価値も、人間そのものの尊さより、生産性や能力や社会的成功によって評価されやすくなります。その結果、人間そのものの価値よりも、その人が何を生み出し、どれだけ役に立つかという基準が重視されるようになります。

すると、人間は互いに愛し合う存在ではなく、競争し、利用し合う存在と見てしまう危険を抱えるようになります。

このように、神を失うとは、単に宗教を失うことではありません。幸福そのものを測る基準が変わってしまうことでもあるのです。

 

5 共産主義国家が示したもの

共産主義は、このような神を失った理想が歴史の中に現れた一つの姿として考えることができます。

そこには平等への願いがありました。共同体への憧れがありました。苦しむ人々を救いたいという理想もありました。しかし、その中心には神はいませんでした。

そのため、人間は神に代わる新しい絶対的なものを求めるようになりました。それは国家であり、党であり、革命思想であり、指導者でした。

本来神だけが占めるべき絶対的な位置に、人間そのものや、人間がつくった制度や組織が置かれるようになったのです。

その結果、人間を解放するために始まった思想が、しばしば人間を管理し支配する方向へ進んでいきました。ここに、神を失った理想が抱える危険を見ることができます。

 

6 神を失えば真の幸福も失う

このように考えると、共産主義は単なる政治思想ではありません。それは、神を失った文明が、それでも幸福を求め続けた歴史の一つの姿として理解することができます。

人間は神を失っても幸福を求めます。そして、その幸福を実現するために、平和を求め、平等を求め、共同体を求めます。

しかし、その出発点から神が失われるならば、人間は真の幸福を見失うことになります。

そして、その失われた幸福を、物質や権力や競争や革命の中に求めようとするようになるのです。これは文明だけに起こることではありません。

一人の信仰者もまた、神への愛を失うならば、神に代わる何かを人生の中心に置こうとします。

だからこそ、共産主義の歴史を学ぶことは、一つの思想を学ぶことではありません。

それは、神を失った人間と神を失った文明が、なお幸福を求めながら歩んだ歴史を学ぶことであり、同時に、私たち自身がどこに真の幸福を求めて生きるのかを問い直すことでもあるのです。

次回は、本シリーズの総括として、「神への愛か、神への怨みか」というテーマを通して、一人の人間と文明との相似性を改めて振り返りながら、神への愛を失わない生き方について考えていきます。

 

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