1 神を否定する人は最初から神を憎んでいたのか
前回は、共産主義の起源を理解するためには、人がどのようにして神への信仰を失っていくのかについて考える必要があることを考察しました。
そして、一人の人間の内面に起こることは、組織社会としての文明全体にも起こるという観点から、共産主義を文明規模で起こった信仰喪失の現象として捉える視点を提示しました。
それでは、なぜ人は神を否定するようになるのでしょうか。
一般には、神を否定する人は神に無関心な人であるかのように考えられることがあります。しかし実際にはそうとは限りません。
むしろ神への否定は、神に強い関心を持ち、神に期待し、神を求めていた人々の中から生まれることがあります。
神を全く信じていない人は、神に失望することもありません。しかし神を信じている人は違います。
神を愛し、神を信頼し、神に期待しているからこそ、その期待が裏切られたと感じたときに大きな衝撃を受けるのです。
したがって、神への否定を理解するためには、まず神に対する愛と期待について考えなければなりません。
2 神に対する愛は期待を生み出す
ヨハネ第一の手紙には次のように記されています。
わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(ヨハネの第一の手紙4章19節)
信仰の出発点は人間の努力ではありません。神の愛です。人は神に愛されていると感じるからこそ神を愛し、神が自分を導いてくださると信じるからこそ神を信頼します。
そして神が善なる方であり、正しい方であり、愛なる方であると信じるからこそ、自分の人生に対して希望を抱きます。
そのため、信仰には必ず期待が伴います。苦しみの中にあれば神が助けてくださることを願い、不正があれば神が正してくださることを願い、祈れば神が聞いてくださることを願います。
これらは決して間違ったことではありません。むしろ神に対する信頼があるからこそ生まれる自然な心の動きです。
ところが、その期待と現実との間に大きな隔たりを感じたとき、人の心には葛藤が生じます。そして、その葛藤をどのように乗り越えるかによって、その後の信仰の歩みは大きく変わっていくのです。
3 失望はどこから生まれるのか
人生には理解できない出来事があり、熱心に祈っても状況が変わらないことがあり、神を信じていても苦難に直面することがあります。善人が苦しみ、悪人が栄えているように見えることもあります。
そのようなとき、人の心には疑問が生じます。詩篇13篇1節には、「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか」とあります。
この叫びは不信仰ではありません。むしろ神を信じているからこそ生まれる叫びです。
しかし注目すべきは、詩篇13篇がこの叫びで終わっていないことです。最後には次のように言い切ります。
しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。(詩篇13篇5~6節)
神への問いかけは、信仰の終わりではなく、信頼へと深まる入り口にもなり得るのです。
4 観念的信仰と実感的信仰
しかし、すべての人が詩篇13篇の作者のように、苦難を通して神への信頼を深めるわけではありません。
ある人は試練の中で神との関係をより強くしますが、別の人は失望を積み重ね、その失望を神に対する不信へと変えてしまうことがあります。
では、なぜ同じ苦難に直面しても、神に対する信頼を失わない人と、神に対する不信へと向かう人がいるのでしょうか。『原理講論』には次のような指摘があります。
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。(『原理講論』p34)
この指摘は非常に重要です。人は神について知識として理解しているだけでは、試練のときに信仰を保つことができません。
神の存在を教義として理解しているだけでは、苦難の中でその信仰は容易に揺らいでしまいます。なぜなら、知識としての神は現実の苦しみよりも弱いからです。
しかし神の存在を実感している人は違います。自分の理解を超えた出来事に直面しても、神との関係そのものを失うことはありません。ここに信仰の大きな分岐点があります。
信仰が観念にとどまるならば、人は苦難に直面したとき神への不満に支配されやすくなります。しかし信仰が実感を伴うものであるならば、人は理解できない出来事の中でも神を求め続けることができるのです。
5 ヨブとカインの違い
この違いを考える上で注目したいのがヨブとカインです。
ヨブは極めて大きな苦難を経験しました。しかし彼は神を捨てませんでした。理解できない出来事に苦しみながらも、最後まで神との関係を断ち切ることはありませんでした。
一方、カインは自分の供え物が受け入れられなかったことによって心を乱し、その不満を解決できないままアベルを殺してしまいました。
ここで見落としてはいけないのは、神がカインに対して語りかけておられたことです。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4章6~7節)
神はカインを切り捨てられたのではありません。むしろ彼に語りかけ、立ち返る機会を与えておられました。
しかしカインは、「なぜ神はアベルの供え物だけを受け入れられたのか」という疑問と不信を心の中で解決することができませんでした。
そのため、自分を立ち直らせようとして語りかけてくださった神の愛を感じ取ることができず、かえって心を閉ざしてしまったのです。
ここに、神に対する失望が不信へと変わっていく一つの姿を見ることができます。
両者に共通しているのは、自分の願いどおりにならない現実に直面したことです。
しかし、その現実を神との関係の中で受け止めるか、自らの感情を中心として受け止めるかによって、その後の歩みは大きく分かれました。
ヨブは苦難の中でも神を求め続けましたが、カインは失望と怒りに心を支配されてしまいました。
神に対する怨みは、神を知らないところから生まれるのではありません。むしろ神との関係が十分に成熟していないところで、失望が解消されないまま積み重なることによって生まれるのです。
6 神に対する怨みから神への否定へ
期待がなければ失望もありません。愛がなければ裏切られたという感覚も生じません。信頼がなければ不信も生まれません。
その意味で、神への否定は無関心から始まるのではなく、しばしば神に対する期待が裏切られたと感じるところから始まります。
そして、その失望が解決されないまま積み重なると、不満は不信へ、不信は神への反発へと変わり、最後には神そのものを否定するところへ至ることがあります。
このような信仰喪失の過程は、一人の人間の中だけに起こるものではありません。組織社会としての文明もまた同じ道を歩むことがあります。
神への愛から出発した文明も、失望を積み重ねるならば、不信と怨みを抱き、ついには神を否定する思想を生み出すことがあります。
共産主義を理解するためには、この精神的過程を理解する必要があります。なぜなら、共産主義の根底には神への不信と怨みがあり、その背後には神への失望があり、さらにその背後には、キリスト教文明が抱いていた神への期待が存在していたからです。
次回は、「一神教はなぜ無神論を生み出すのか」というテーマを通して、唯一神への絶対的信仰がなぜ絶対的否定を生み出し得るのかについて考察していきます。

