1 神を最も信じた文明から神を最も否定する思想が生まれた
前回は、神への否定は無関心から生まれるのではなく、しばしば神への期待が裏切られたと感じるところから始まることを考察しました。
そして、神への失望が不信に変わり、その不信がやがて神への反発や否定へと発展していく過程について見てきました。
そこで今回は、さらに一歩踏み込み、一神教と無神論の関係について考えてみたいと思います。
一般的な感覚からすれば、神を信じる宗教と神を否定する無神論は正反対の存在です。そのため、無神論は宗教とは無関係なところから生まれた思想であるかのように考えられがちです。
古代にも無神論的な思想は存在しました。しかし、それが国家を形成し、世界的な勢力として広がった例はほとんどありませんでした。
そのような歴史的現象としての無神論的共産主義は、主としてキリスト教文明圏の中から現れました。言い換えれば、神を最も強く信じてきた文明の中から、神を最も強く否定する思想が誕生したのです。
これは一見すると矛盾しているように見えますが、実際には、この現象は一神教そのものが持つ特性と深く関係していると考えられます。
2 一神教における唯一神信仰
申命記には次のようなみ言があります。
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(申命記6章4~5節)
ここには一神教の本質が示されています。
聖書の神は、多くの神々の中の一柱ではありません。天地万物を創造された唯一絶対の神です。そのため、信仰者の希望も祈りも願いも、すべてこの唯一神へ向かいます。
苦難の中にあれば神に助けを求め、人生の意味を求めるときには神の導きを願い、善と正義の基準も神に求めます。このように、一神教とは、人間の心の中心が唯一神に集中する信仰なのです。
このことは一神教の大きな力でもあります。なぜなら、人間はどのような状況に置かれても、絶対者を信頼することができるからです。
歴史上、多くの信仰者たちが、迫害や苦難の中でも希望を失わずに歩むことができたのは、この絶対的信仰があったからでした。
しかし、ここに一神教のもう一つの側面があります。
3 絶対的信仰は絶対的失望を生み得る
人は神を信じるからこそ神に期待します。神は愛であると信じるからこそ助けを求めます。神は正義であると信じるからこそ悪が裁かれることを願います。
そして、神は善なる方であると信じるからこそ、自分の人生にも意味があることを期待します。ところが現実には、その期待どおりにならないことがあります。
戦争や災害が起こり、善人が苦しみ、悪人が栄えているように見えることがあります。また、熱心に祈っても状況が変わらないこともあります。そのような現実に直面したとき、人の心には葛藤が生じます。
神への期待が小さければ失望も小さくなりますが、神への期待が大きければ、その期待が裏切られたと感じたときの失望も大きくなります。
そして一神教では、その期待が唯一神へ集中しているため、失望もまた唯一神へ向かいます。ここに一神教のもう一つの側面があります。
絶対的信仰は、人を大きく成長させる力になります。しかし、その信仰が失われたときには、絶対的否定へと転化する可能性も持っているのです。
4 多神教との違い
この点は多神教との比較によってさらに理解しやすくなります。
もちろん多神教にはさまざまな形があり、一括して論じることはできませんが、一般論として言えば、多神教では、神々がそれぞれ異なる役割を担っています。
そのため、ある願いがかなわなかったとしても、それが神という存在そのものの否定にはつながりにくい傾向があります。また、不幸や不条理の原因を一つの神に集中して求める必要もありません。
ところが一神教では、世界を支配しているのは唯一神です。そのため、人間の期待も疑問も不満も失望も、最終的にはすべて唯一の神に向かいます。
もし神が全能であり、全知であり、愛なる方であるならば、なぜこのような現実が存在するのかという疑問が生じるのです。
そして、その疑問に納得できる答えを見いだせなかったとき、人は神への不信を抱くようになります。
この意味において、一神教は極めて強い信仰を生み出すと同時に、極めて強い否定を生み出す可能性も持っていると言えるでしょう。
5 無神論はどこから生まれるのか
詩篇には次のようなみ言があります。
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。(詩篇14篇1節)
ここで聖書は、無神論を単なる知的結論として描いているわけではありません。実際には、その背後に人間の心の問題があります。
神への愛が冷えれば神への信頼も弱くなり、神への信頼が弱くなれば感謝の心も失われていきます。
そして、感謝が失われたところには不満や失望が生まれ、その失望が積み重なることによって神に対する不信へと発展し、最後には神そのものを否定するところにまで至ることがあるのです。
もちろん哲学的な理由から無神論を選ぶ人もいます。しかし歴史的に見れば、多くの無神論思想の背後には、神への失望や反発が存在しています。
この意味において、無神論は神と無関係なところから生まれるのではありません。むしろ一神教の信仰の中で育まれた神への期待が、大きな失望を経験したところから生まれる場合があるのです。
6 絶対的信仰から絶対的否定へ
ここまで見てきたように、一神教は絶対的信仰を育みますが、その信仰が失われたときには、絶対的否定を生み出す可能性も持っています。
共産主義は、神への絶対的信仰が失望と不信を経て絶対的否定へと変わっていく、その歴史的な現れの一つとして理解することができます。
共産主義は単なる経済理論ではありません。その根底には無神論があります。そして、その無神論は、キリスト教文明が抱いていた神への期待が大きな失望へと変わり、その失望が神への不信へと発展していく過程の中から生まれたものと考えることができます。
したがって共産主義は、神と無関係なところから生まれた思想ではありません。むしろ神を信じる文明が神への信頼を失っていく過程の中で生まれた思想と理解することができます。
次回は、「なぜキリスト教社会は共産主義の温床となったのか」というテーマを通して、神への愛から出発した文明がどのようにして神への失望を蓄積していったのかを考察していきます。

