前回は、「神の単純性(Divine Simplicity)」と、東方正教会における「本質とエネルギーの区別」について語られたみ言を紹介しました。
第2回以降では、そのみ言を個別のテーマに分けて解説し、深掘りしていくことにします。
1 「神が単純である」とはどういう意味か
最初に取り上げられていたのが、トマス・アクィナスが神をどのように捉えたのかという問題です。そこでは、神の本質と神の活動を一つの単純な実在とする考え方が「神の単純性」として説明されていました。
日本語で「単純」という言葉を聞くと、「複雑ではない」「分かりやすい」といった意味を思い浮かべるかもしれません。神学における「単純性」は、それとは異なる専門的な意味をもっています。
ここでいう単純性とは、神が複数の部分から組み立てられた存在ではないという意味です。
私たちが普段接しているものの多くは、複数の要素から成り立っています。人間の肉体も多くの器官から成り立っており、精神についても知性、意志、感情などを区別して考えることができます。
トマスは、神をそのような複合的な存在として考えませんでした。神が何らかの部分から組み立てられているとすれば、その部分が神に先立って存在することになり、さらに、それらを一つにする原因が必要になるからです。
神が万物の究極的な原因であるならば、神自身が何か別のものによって構成されていると考えることはできません。このような神に対する理解から、「神の単純性」という考え方が導かれるのです。
2 神は存在そのもの
トマスの神に対する理解を知るうえで重要なのが、「本質」と「存在」の関係です。
例えば、私たちは「人間とは何か」を考えることができます。人間という存在の本質を理解することと、ある特定の人間が現実に存在していることは区別できます。
人間は自分自身によって存在しているわけではありません。父母から生命を受け、食物や空気など多くのものに依存して生きています。この意味で、人間の「本質」と「存在」は同じものではありません。
これに対して神は、誰かによって存在を与えられた方ではなく、あらゆる存在の根源です。そのため、神においては「何であるか」という本質と、「存在する」ということが究極的には分離していません。
トマスはこの意味で、神を「存在そのもの」である方と理解したのです。これは、出エジプト記3章14節で、神がご自身を「わたしは、有って有る者」と示されたこととも結びつけて理解されてきました。
神は何か別の存在によって支えられているのではなく、すべての存在が神に究極的な根拠をもつ。このような神に対する理解が、トマスの「神の単純性」の基礎にあります。
3 神の知恵、意志、愛はどう理解されるのか
聖書には、神の知恵、意志、愛、力などについて多くの記述があります。例えば、ヨハネの第一の手紙4章8節には「神は愛である」と記されています。
この言葉は、「神が愛という性質を持っている」とだけ述べているのではなく、神ご自身と愛とは別々のものではなく、一体であることを表しています。
人間の場合、知ること、意志すること、愛することなどは、それぞれ区別することができます。人間は愛することもあれば、愛さないこともあり、知らなかったことを後から学んで、新しい知識を身につけることもあります。
それに対してトマスは、神の知恵、意志、愛、力などを、神の中にそれぞれ独立して存在する性質や能力とは考えませんでした。私たちはそれらを異なる概念として語ることができますが、神の中では、それらが別々の部分として存在しているわけではないのです。
つまり、神の知恵、神の意志、神の愛、神の力が集まって「神」という存在を構成しているのではありません。それらは神に付け加えられた性質ではなく、神ご自身から切り離して考えることのできないものということです。
この考え方を徹底していくと、神の本質と存在、知恵、意志、愛、さらには神の活動についても、それぞれを神の内部に存在する独立した部分として捉えることはできなくなります。
前回の文章で「神の本質と神の活動を互いに区別せず、一つの単純な実在として理解する」と説明されていた背景には、このような神に対する理解があります。
4 トマス・アクィナスと「合理主義」
前回の文章では、「トマス・アクィナスの合理主義的観点から神を理解すれば」という表現が使われていました。この「合理主義的」という言葉についても、その背景を知っておくと原文の意味がより明確になります。
トマスは13世紀の神学者であり、古代ギリシア哲学、特にアリストテレスの哲学を積極的に取り入れながら、キリスト教神学を体系的に説明しました。
神とはどのような存在なのか。神が存在するといえるのはなぜか。神の知、意志、愛、摂理とは何か。人間は神についてどこまで知ることができるのか。こうした問題を、信仰だけでなく哲学的な概念と論理を用いて詳細に論じています。
その意味で、トマスの神学には、神について理性的・哲学的に理解し、それを体系化しようとする強い方向性があります。
前回の文章にある「合理主義的観点」という表現も、まずこのような特徴を指すものとして理解することができます。
一方、トマスは、人間の理性だけで神についてのあらゆる真理を知ることができると考えていたわけではありません。
人間の理性によって知ることができる真理がある一方で、三位一体や受肉など、神からの啓示によらなければ知ることのできない真理があると考えていました。
また、人間がこの地上において神の本質を直接把握できるとも考えていませんでした。
したがって、ここでいう「合理主義的」という言葉は、後世の近代合理主義とトマスの神学をそのまま同一視するものではなく、理性と哲学を用いて神について体系的に説明しようとした神学的方向性を表すものと考えることができます。
5 神の超越性を守る「単純性」
神の単純性という考え方の背景には、神を被造物と同じ次元の存在として捉えないという大きな目的があります。
もし神が複数の部分から構成されているならば、その部分はどこから来たのか、それらを一つにしているものは何なのかという問題が生じます。そして、神自身が何らかの原因によって成立しているのであれば、神よりも根源的なものを想定しなければならなくなります。
神の単純性は、神よりも先立つ原因や原理を想定することなく、神ご自身をあらゆる存在の究極的な根源として捉える考え方です。
神は何かによってつくられた存在ではなく、何かに依存して存在する方でもありません。神の外部に、神を神として成立させる、より根源的な原理が存在するわけでもありません。
この意味で神の単純性は、神の絶対性、超越性、そして究極的な根源性を説明するための神学的概念でもあります。
同時に、この考えを神と人間の関係という観点から見ると、前回の文章で扱われていたもう一つの主題へとつながっていきます。
人間が神の本質そのものを直接把握することができないとすれば、人間が祈りの中で神を感じたり、神の恩恵や愛、力を経験したりするとき、私たちは神の何を経験しているのでしょうか。
この問題は、「神を知る」ということと「神を経験する」ということの関係を考える問題でもあります。
6 西方と東方を分ける一つの神学的論点
西方のキリスト教では、アウグスティヌスからトマス・アクィナスへと続く神学の中で、神の単純性が重要な位置を占めるようになりました。
一方、東方のキリスト教も神が部分から構成される存在だと考えているわけではありません。神は唯一であり、被造物を超越した方であるという基本的な理解は共有されています。
そのうえで東方正教会では、神の本質そのものと、人間に対して現れる神の働きとをどのように理解するかという問題が深く考察されていきました。
そこで重要になるのが、ギリシア語で「活動」「働き」「作用」を意味する「エネルゲイア(energeia)」という概念です。
神の本質そのものには人間が接近できない。それでも人間は、神の恩恵、愛、力、働きを実際に経験することができる。この二つをどのように両立させるのかという問題に対して、東方正教会では「本質とエネルギーの区別」という考え方が発展していったのです。
ここで大切になるのが、「区別すること」と「分離すること」は同じではないという点です。
神の本質とエネルギーを区別するといっても、神を二つの部分に分割するわけではありません。神のエネルギーは神から切り離された別の存在ではないのです。
神の超越性を保ちながら、人間が神を現実に経験できることをどのように説明するか。その問いに対する東方正教会の神学的な答えが、「本質とエネルギーの区別」なのです。
次回は、この「本質(ousia)」と「エネルギー(energeia)」という二つの概念を中心に、東方正教会が神と人間との出会いをどのように説明してきたのかを詳しく見ていきます。

