1 なぜイワンは「馬鹿」なのか
ロシアの文豪トルストイの民話『イワンの馬鹿』には、世間の常識から見れば「賢い」と思われる人々と、「馬鹿」と呼ばれるイワンとの対照的な姿が描かれています。
イワンが馬鹿と呼ばれるのは、世間の人々が当然のように求める富や地位、権力といったものに執着せず、損得を考えずに働き、自分の持っているものを惜しみなく人に与えてしまうからです。
普通であれば、「どうすればもっと豊かになれるか」「どうすれば人より上に立てるか」「どうすれば楽に暮らせるか」と考えます。しかしイワンは、そのような価値観では動きません。
そのため、世間の基準から見れば愚かに見えるのですが、この「愚かさ」が悪魔にとっては大きな問題になります。
悪魔は人間の欲望を利用して誘惑します。富を求める者には富を、権力を求める者には権力を、名誉を求める者には名誉を示すことによって、人間の心を動かそうとします。
しかし、それらに価値を感じない人間を誘惑することは容易ではありません。ここに『イワンの馬鹿』という物語の興味深い逆説があります。世間から見れば馬鹿であるイワンが、悪魔から見れば最も扱いにくい人間なのです。
2 悪魔は人間の何を利用するのか
誘惑について考えるとき、私たちは悪魔が外から人間に悪を押しつける姿を想像しがちですが、『イワンの馬鹿』に描かれる悪魔の働きを見ると、それとは少し違った構造が見えてきます。
悪魔は、人間の内にある欲望や野心を利用します。つまり、何もないところから欲望をつくり出すというより、人間がすでに価値を感じているものを利用し、それをさらに大きくすることによって人間を動かそうとするのです。
この点は、本シリーズで考えてきた誘惑の構造とよく似ています。誘惑とは、人間の判断基準を神のみ言から別のものへと移動させ、主体性を失わせる働きです。
人間が富そのものを持つことが問題なのではありません。地位を持つことや、人から評価されること自体が悪なのでもありません。問題は、それらが神よりも重要な判断基準になることです。
「神は何を願っておられるのか」ではなく、「自分はいくら得をするのか」、「何が正しいのか」ではなく、「人からどう評価されるのか」という基準で判断するようになれば、人間の主体性は次第に別のものによって支配されるようになります。
悪魔の誘惑とは、まさにこの判断基準の移動を狙うものだと見ることができます。
3 なぜ兄たちは誘惑され、イワンは誘惑されなかったのか
『イワンの馬鹿』では、兄たちはイワンとは異なる価値観で生きています。彼らは富や権力、軍事的な力など、世間一般が価値あるものと考えるものを求めます。そのため、悪魔には彼らを動かすための足場があります。
悪魔は、人間が「これだけは欲しい」と強く思っているものがあれば、それを利用して判断を変えさせることができるのです。
「これを手に入れるためなら少しくらい妥協してもよい」
「成功するためなら仕方がない」
「皆がそうしているのだから、自分もそうしよう」
このようにして、最初は小さな判断の変更だったものが、やがてその人の生き方そのものを変えていきます。ところがイワンには、この方法がなかなか通用しません。
富を示されても、それによって自分の生き方を変えようとはしません。権力を与えられても、それを使って他人を支配しようとはしません。彼にとって重要なのは、自分にできることを行い、必要なものを分かち合って生きることだからです。
悪魔がどれほど魅力的なものを提示しても、それをイワン自身が価値あるものとして受け入れなければ、誘惑は成立しません。ここに重要な教訓があります。
誘惑は、外から何かを提示されただけでは成立しないのです。それを人間自身が価値あるものとして受け入れ、それまで自分が大切にしていたものよりも、悪魔が提示する富や権力、名誉などを優先するようになったときに、初めて誘惑は成立します。
聖書的に言えば、これは神のみ言を基準として判断することよりも、神以外のものを優先して判断するようになることに相当します。
4 ペテロとイワンの違い
この点から見ると、『イワンの馬鹿』は、先に考察したペテロの水上歩行の出来事と興味深い対照をなしています。
ペテロは最初、「おいでなさい」というイエスのみ言を信じ、その言葉を基準として水の上を歩いていました。しかし途中で風を見ました。
すると外的環境に意識が向き、イエスのみ言に対する信仰が揺らぎました。そして、その結果として、神のみ言を基準として立っていた主体性も揺らいでしまいました。
これに対してイワンの場合、悪魔はさまざまな外的条件を提示しますが、イワンの判断基準はなかなか変わりません。ここに両者の違いがあります。
ペテロの物語は、外的環境によって信仰が揺らぎ、判断基準が移動したときに何が起こるのかを示しています。
それに対してイワンの物語は、外から別の価値を提示されても、自分の基準を手放さなければ誘惑は成立しにくいことを示しているのです。
もちろん、イワンをそのまま聖書における信仰者と同一視することはできません。『イワンの馬鹿』はトルストイの文学作品であり、イワンの生き方にはトルストイ自身のキリスト教理解や社会観が強く反映されています。
それでも、「何を判断基準として生きるのか」という観点から見るならば、イワンの姿は本シリーズの主題を考えるうえで非常に興味深い材料となります。
5 誘惑と戦わなくてもよい人間
『イワンの馬鹿』からさらに一歩進んで考えると、誘惑の克服について重要なことが見えてきます。
一般に誘惑に打ち勝つというと、強い意志によって欲望を抑え、悪魔から提示されたものを必死に拒否する姿を想像します。しかし、それよりもさらに強い状態があります。
それは、誘惑されるものそのものに価値を感じなくなることです。
例えば、富を人生の最大の価値と考えている人にとって、金銭による誘惑は非常に強い力を持ちます。しかし、富が人生の最終目的ではないと確信している人にとって、その誘惑の力は大きく弱まります。
人から認められることを何よりも重要だと考えている人は、他人の評価によって容易に揺らぎます。しかし、神との関係を基準として自分の価値を理解している人は、他人の評価によって自分の進む道を変える必要がありません。
つまり、誘惑への究極的な克服とは、誘惑が来るたびに戦い続けることだけではありません。自分の価値基準そのものが変わることなのです。
神のみ言によって新たな自己がつくられ、その自己が神のみ旨を基準として生きるようになれば、かつて魅力的に見えたものが、それほど重要なものではなくなっていきます。
誘惑がなくなるのではありません。誘惑が自分を動かす力を失っていくということです。
6 「馬鹿」になることの意味
このように考えると、『イワンの馬鹿』という題名にも別の意味が見えてきます。
世間の価値基準から自由になった人間は、ときに世間から愚かに見えます。
利益を得られるのに取らない。人より上に立てるのに立とうとしない。仕返しできるのに仕返ししない。自分だけ豊かになることができるのに、人と分かち合おうとする。
世間の損得だけを基準とすれば、確かに馬鹿に見えるかもしれません。しかし聖書にも、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである」(コリント人への第一の手紙3章19節)とあります。
この意味から考えると、イワンの「馬鹿」とは単なる無知ではありません。世間が絶対的な価値だと思っているものに支配されない生き方を意味しているとも読むことができます。
そして、それは本シリーズで考えてきた主体性とも深く関係しています。
主体性とは、自分の欲望のままに生きることではありません。また、周囲の人とは違うことをすることでもありません。神のみ言を基準として、自ら判断し、行動することです。
その基準が確立されていれば、たとえ世間から理解されなくても、自分の歩むべき道を見失うことがありません。
7 まとめ―誘惑の究極的な克服
ペテロは風を見たことによって、イエスのみ言に対する信仰が揺らぎました。イワンは、悪魔からさまざまなものを提示されても、それらによって自分の生き方を大きく変えませんでした。
この二つの物語を並べると、誘惑について一つの重要な原理が見えてきます。
誘惑の力は、外から提示されるものだけによって決まるのではありません。それを自分がどのような価値あるものとして受け止めるかによって大きく変わるのです。
だからこそ、誘惑を克服するために必要なのは、外から来る誘惑を一つ一つ取り除くことだけではありません。自分自身の内に、揺るがない判断基準を確立することです。
そして聖書的に考えるならば、その基準となるものが神のみ言です。
神のみ言によって新たにつくられた自己を信じ、神との関係の中で主体的に判断し、行動する。そのような人間にとって、悪の誘惑は次第にその力を失っていきます。
『イワンの馬鹿』が私たちに示しているのは、悪魔よりも賢くなることで誘惑に勝つという道ではありません。むしろ、悪魔が差し出すものに心を奪われない人間になることです。
世間から見れば「馬鹿」に見えたとしても、神との関係の中に確かな判断基準を持てば、外的な価値に振り回されることなく、自分の歩むべき道を歩み続けることができます。
そこに、誘惑に対する最も根本的な克服の道を見ることができるのではないでしょうか。

