1 人間は神を経験することができるのか
前回は、トマス・アクィナスの「神の単純性」について見てきました。神は複数の部分から構成された存在ではなく、本質、存在、知恵、意志、愛、力なども、神の中で別々の部分として存在しているわけではないという考え方です。
この神の超越性を保ちながら、人間と神との実際的な関係をどのように説明するのか。東方キリスト教では、この問題について長い神学的思索が積み重ねられてきました。
聖書を見ると、人間には神を見ることができないとする記述があります。神はモーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」(出エジプト記33章20節)と語られました。
その一方で、聖書には人間が神と出会い、神の働きを経験する場面が数多く記されています。モーセは燃える柴を通して神と出会い、預言者たちは神の言葉を受け、弟子たちは聖霊の働きを経験しました。
神は人間をはるかに超越した方でありながら、人間はその神と実際に出会うことができる。この二つを同時に説明しようとするところに、東方正教会の「本質とエネルギーの区別(Essence–Energies Distinction)」を理解する一つの入口があります。
2 神の「本質」とは何か
東方正教会の神学では、神の「本質(ousia/ウーシア)」と「エネルギー(energeia/エネルゲイア)」を区別します。
「ウーシア」とは、ギリシア語で「本質」「実体」「存在」などを意味する言葉です。ここでいう神の本質とは、神が神であるその根源的な実在を指しています。
東方正教会では、人間がこの神の本質そのものを直接把握することはできないと考えます。これは単に、人間の知識が不足しているために、現在は神を十分に理解できないという意味ではありません。
神と被造物である人間との間には、本質的な違いがあります。人間がどれほど霊的に成長したとしても、人間が神の本質そのものへと変わるわけではありません。
ヨハネによる福音書1章18節には、「神を見た者はまだひとりもいない」とあります。
神は人間が一つの対象物のように観察し、その本質をすべて把握できる存在ではありません。神の本質は、人間の理性や五感によって捉え尽くすことのできない領域にあると考えるのです。
3 「エネルゲイア」とは神の実際の働き
そこで重要になるのが「エネルゲイア」という概念です。
エネルゲイアはギリシア語の「energeia」に由来し、「活動」「働き」「作用」などを意味します。現代の物理学でいう「仕事をする能力」としてのエネルギー(energy)とは、いったん区別して考える必要があります。
東方正教会における神のエネルゲイアとは、神から切り離された何らかの物質や力を意味するのではありません。神が現実に働かれる、その実際の働きを意味します。
神の恩恵、愛、力、光、聖霊の働きなどを通して、人間は神のエネルゲイアを経験するのです。
そのため、「人間は神の本質を直接知ることができない」ということは、「人間は神と直接的な関係を結ぶことができない」という意味にはなりません。
人間は神の本質そのものを把握することはできなくても、神のエネルゲイアを通して、神の恩恵を受け、神の愛に触れ、神の力と働きを経験することができるのです。
ここに東方正教会の神に対する理解の大きな特徴があります。
4 東方神学の中で発展してきた考え方
「本質とエネルギーの区別」は、ある一人の神学者が突然つくり出した考え方ではありません。その背景には、初期キリスト教以来の東方神学の長い流れがあります。
4世紀のカッパドキア教父たちは、神の本質そのものは人間には把握できない一方で、神の働きを通して神を知ることができるという考えを展開しました。
特にカイサリアのバシレイオスは、神のエネルギーは私たちのもとに及ぶが、神の本質そのものは近づくことのできないものとして語っています。
5~6世紀ごろの神学者で、「偽ディオニュシオス」と呼ばれる人物は、人間の言葉や概念を超える神の超越性を強調するとともに、神から発する働きによって被造世界が神と関係することを論じました。
※「偽ディオニュシオス」とは、その思想や著作が偽物という意味ではなく、使徒行伝17章34節に登場するディオニュシオスの名で著作が伝えられてきたものの、後世の別人による著作と考えられているためにつけられた学術上の呼称です。
7世紀の証聖者(しょうせいしゃ)マクシモスも、神と被造世界との関係を深く考察し、人間が神の働きに参与しながら神へと近づいていく道を論じています。
※「証聖者」は、キリスト教、とくに正教会で用いられる称号で、信仰を公に証しし、そのために迫害や苦難を受けたものの、殉教には至らなかった聖人を指します。
こうした東方神学の伝統が、14世紀のグレゴリオス・パラマスにおいて、より明確なかたちで「本質とエネルギーの区別」として体系化されていきました。
パラマスは、祈りや霊的修行を通して経験される神の光を、単なる人間の心理現象や神によってつくられた何かとして捉えたのではありません。
それは神の本質そのものではないものの、神から切り離すことのできない、神の実際の働きであると考えたのです。
5 「区別するが、分離しない」とは何か
「本質とエネルギーの区別」を理解するうえで重要なのが、区別することと分離することは同じではないという点です。
神の本質とエネルゲイアを区別するといっても、神の中に「本質」という部分と「エネルギー」という部分があり、それらが組み合わさって神を構成しているという意味ではありません。
また、エネルゲイアが神から独立して存在する別の力であるという意味でもありません。神の本質とエネルゲイアは区別されますが、互いに切り離されているわけではないのです。
このことは、「神を経験する」とは何を意味するのかを考えるうえで大きな意味をもちます。
人間が神の愛を経験したとき、それは神とは関係のない何かを経験したのではありません。神の恩恵や力を経験したときも同じです。人間は神のエネルゲイアを通して、実際に神と出会い、その働きや恩恵にあずかっているのです。
それでも、人間が神の本質そのものにあずかるわけではなく、その本質をすべて理解できるわけでもありません。
つまり、神は人間にとって永遠に遠いだけの存在ではなく、実際に出会い、その働きや恩恵を受けることのできる方ですが、それによって、人間が神と同一の本質をもつ存在になるわけではないのです。
6 太陽そのものと、そこから発する光と温かさ
この関係を理解するために、前回紹介した文章では太陽の比喩が使われていました。
太陽そのものに人間が直接触れることはできません。それでも私たちは、太陽から発する光を実際に見ています。そして、その温かさを実際に感じています。
この比喩では、太陽そのものが「本質」に、太陽から発する光や温かさが「エネルゲイア」に対応します。
光や温かさは、太陽とまったく無関係なものではありません。太陽から発し、太陽の働きを私たちに現しています。私たちは光と温かさを通して、太陽の働きを現実に経験しています。
同じように、人間は神の本質そのものに直接接近することはできなくても、神から現れる恩恵、愛、力、働きを通して、神を現実に経験することができると考えます。
そして、この比喩にはもう一つ重要な意味があります。
私たちが太陽の光を浴び、その温かさを十分に経験したとしても、私たち自身が太陽と同等の存在になるわけではありません。
それと同様に、人間が神のエネルゲイアを深く経験し、神の恩恵と愛に満たされたとしても、人間が神の本質そのものとなり、神と同等の存在になるわけではないのです。
この点に、「本質とエネルギーの区別」が神と人間との境界を保ちながら、同時に神との実際的な出会いを認める意味があります。
7 神の超越性と神との出会いを同時に捉える
東方正教会の「本質とエネルギーの区別」が目指しているのは、神を人間から遠ざけることではありません。
神の本質そのものは人間の理性や五感によって捉え尽くすことができない。それでも神は、人間と何の関係ももたない遠い存在ではなく、エネルゲイアを通して実際に働き、人間に恩恵と愛を与え、人間と関係を結ばれる方として理解されます。
ここには、神の超越性と神との実際的な出会いを同時に捉えようとする神学があります。
そして、この考え方は東方正教会の「神化(theosis)」という思想にもつながっていきます。
人間は神の生命と働きに参与する、すなわち、神の恩恵や愛、力といった働きにあずかることによって、神との関係を深めていくことができます。それは人間が神の本質そのものになることを意味するのではありません。
この「参与すること」と「同一になること」の違いを理解すると、前回紹介した文章の中心的な問い――人間はどのように神を実際に経験しながらも、神と同一の存在にならずにいられるのか――に対して、東方正教会がどのような答えを示しているのかが見えてきます。
次回は、この問題をさらに聖書の具体的な出来事から考えていきます。
モーセが燃える柴で神と出会った出来事をはじめ、「神を見ることはできない」とする聖句と、実際に神と出会い、神の言葉や働きを経験した人々の記録を取り上げながら、聖書における「神を経験する」とは何を意味するのかを見ていきたいと思います。

