1 「神を見ることはできない」と「神と出会う」
前回は、東方正教会の「本質とエネルギーの区別」について見てきました。
神の本質(ousia/ウーシア)そのものは人間が把握できるものではありませんが、神のエネルゲイア(energeia)、すなわち神の実際の働きを通して、人間は神の恩恵や愛、力を経験できるという考え方です。
この考え方を踏まえて聖書を読むと、興味深い記述があることに気づきます。
出エジプト記33章20節で、神はモーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」と語られています。
ところが、そのわずか9節前には、「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」(出エジプト記33章11節)とあります。
一方では神の顔を見ることはできないとされながら、もう一方では、モーセは神と「顔を合わせて」語ったとされています。
この二つの記述は、「神を見る」「神と出会う」という言葉が、必ずしも「人間は神の本質そのものを直接見て、すべてを把握できる」という意味ではないことを示しています。
人間は神の本質をすべて捉えることはできなくても、神の働きを通して、実際に神と出会うことはできるのです。
2 モーセは燃える柴で何を経験したのか
そのことを象徴的に示しているのが、出エジプト記3章の「燃える柴」の出来事です。
ホレブの山で羊の群れを飼っていたモーセは、不思議な光景を目にします。
「主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった」(出エジプト記3章2節)
モーセが近づいていくと、神は柴の中から、「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられます。そして神は、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(同3章5節)と語られました。
モーセにとって、この出来事は単なる自然現象の観察ではありませんでした。彼はそこで神から呼びかけられ、自分に与えられた使命を知らされ、その後の人生を大きく変えることになります。
それでは、モーセはそこで神の本質そのものを見たのでしょうか。聖書はそのようには語っていません。
モーセが見たのは燃える柴であり、その中から神の言葉を聞きました。しかもモーセは、「神を見ることを恐れたので顔を隠した」(同3章6節)と記されています。
つまり、モーセは神の本質を目で捉えたわけではありません。それでも、モーセにとって神との出会いは現実の出来事でした。
3 神を経験することと神の本質を知ること
この燃える柴の出来事を、前回取り上げた「本質とエネルギーの区別」という観点から考えてみると、神を経験するとは何を意味するのかが分かりやすくなります。
神を経験することと神の本質そのものを把握することは同じではありません。
人間が神の愛を感じたからといって、神の本質のすべてを理解したことにはなりません。祈りの中で神からの導きを感じたとしても、それによって神の意志のすべてを知ることができるようになるわけでもないのです。
それでも、その経験を単なる「神とは関係のない何か」と考える必要はありません。
東方正教会の考え方に沿えば、人間は神の本質そのものを把握するのではなく、神のエネルゲイア、すなわち神の実際の働きを通して神と出会います。
神は人間に愛を与え、恩恵を与え、働きかけます。人間はその働きを受けることによって、神との関係を結ぶことができるのです。
前回取り上げた太陽の比喩でいえば、私たちは太陽そのものに触れなくても、その光を見て、その温かさを感じることができます。それは太陽とは無関係なものを経験しているのではありません。
同じように、神の本質をすべて捉えることができないからといって、人間が神を経験できないということにはならないのです。
4 「神が私に語られた」とはどういうことか
この問題は、聖書の時代だけのものではありません。この問題は、かつて聖書に記された時代だけのものではありません。現代に生きる私たちにとっても、神からの働きかけをどのように受け止めるのかという問題は、同じように存在しています。
現代でも信仰をもつ人が、「神が私に語られた」「聖霊が私に示された」「祈っていたら神の導きを感じた」と語ることがあります。
このような表現は、神の本質そのものと直接接触し、神の考えていることをそのまま受け取ったことを意味するものではありません。
「本質とエネルギーの区別」という考え方からすれば、人間が経験するのは、神の本質そのものではなく、人間に対する神の働きかけです。
そのため、「神が私に語られた」という言葉も、神の導きや働きをその人が受け取り、それを人間の意識と言葉を通して理解したものとして捉えることができます。
聖書にも、神が人間に働きかける方法は一つではありません。言葉による場合もあれば、夢や幻による場合もあり、出来事を通して導かれる場合もあるのです。
5 霊的経験と人間自身の判断
このことは、「神から受けた」と感じるものが、本当に神からの働きかけなのか、それとも自分自身の思いや判断によるものなのかを、どのように見分けるのかという問題にもつながります。
人間の内面には、信仰だけが存在しているわけではありません。自分自身の願望、期待、恐れ、思い込み、それまで身につけてきた価値観なども存在しています。
そのため、たとえ強い確信を伴う経験であっても、「自分がそう感じた」ということと、「それが神の意志である」ということは、区別して考える必要があります。
聖書も霊的な事柄について確かめるという姿勢を示しています。
ヨハネの第一の手紙4章1節には、「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」とあります。
また、テサロニケ人への第一の手紙5章21~22節には、「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」と記されています。
つまり、霊的な経験を大切にすると同時に、その経験が本当に神からのものなのかを確かめる姿勢も必要です。
「神が私に語られた」と感じる経験があったとしても、その内容を聖書や信仰の基本的な教えに照らし、自分自身の願望や思い込みが入り込んでいないかを考え、さらにその経験が結果としてどのような実を結ぶのかを見ていく必要があります。
6 「神からのもの」と判断する基準
イエスは、「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ福音書7章15~17節)と語られました。
この言葉は偽預言者を見分ける文脈で語られたものですが、霊的な経験を考えるうえでも重要な視点を与えてくれます。
ある霊的な経験が本当に神からのものであるかを考えるとき、その経験が人を神の愛へと導き、より誠実に他者を愛し、自らの責任を果たす方向へと導いているかを見ることが一つの基準になります。
反対に、その経験によって、自分だけが特別に神の意志を知っていると考え、他者の意見を聞かなくなっているのであれば、自分自身の思いや判断が入り込んでいないかを改めて確かめる必要があります。
霊的経験の強さそのものが、その内容の正しさを保証するわけではないのです。
特に「神がこのように言われた」という表現には非常に強い力があります。それが自分自身の判断と区別されなくなると、本来は人間自身が責任をもって判断すべき事柄まで、「神が決めたこと」として扱われることにもなります。
神からの働きかけを信じることと、人間の判断や責任をなくしてしまうことは別の問題です。
人間は神の働きを受けながら、それをどのように理解し、どのように行動するのかを自ら判断していかなければなりません。
7 神との出会いと人間の責任
燃える柴の前でモーセは確かに神と出会いました。それでも、モーセ自身が神になったわけではありません。神の本質のすべてを理解したわけでもありません。
そして、神から使命を与えられた後には、その使命を自ら引き受け、エジプトへ向かい、数多くの困難の中で判断しながら歩んでいかなければなりませんでした。
ここには、神と人間との関係を考えるうえで大切な原則があります。
神は人間に働きかけることができます。人間はその働きを経験し、神からの導きを受けることができます。それでも、人間が神と同一になるわけではなく、人間自身の判断と責任が消えてしまうわけでもありません。
「神を見ることはできない」という言葉と、「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた」という言葉も、このように考えると必ずしも矛盾するものではありません。
神の本質そのものを把握することはできなくても、人間は神の働きを通して、実際に神と出会うことができる。そして、その出会いをどのように受け止め、どのような行動へとつなげるかというところには、人間自身の判断と責任があります。
「神が私に語られた」という言葉も、この神と人間との関係の中で理解することができます。神からの働きかけを否定する必要はないと同時に、自分が受け取ったものを、そのまま「神の本質や神の意志のすべてだ」と考えることもできないのです。
この二つを区別することによって、神との実際的な出会いを認めながら、人間が自ら考え、判断し、責任をもって歩むことの意味も見えてくるのです。

