1 礼拝は個人か共同体か
これまで見てきたように、礼拝は神との関係そのものであり、賛美はその関係の中から自然に生まれるものです。
しかし、ここで重要になるのは、その礼拝が個人の内面にとどまるものなのか、それとも共同体の中で形成されるものなのかという問題です。
聖書は、この両者を対立させることはしません。むしろ、礼拝は個人の内面において成立すると同時に、共同体の中で具体的な形をとるものとして描かれています。
すなわち、個人と共同体は分離されるものではなく、相互に関係し合うものとされています。
この視点を明確に示しているのが、旧約における神殿礼拝と、新約における教会の姿です。
2 神殿礼拝における歌
旧約聖書において、礼拝は神殿を中心に行われ、そこでは祭司やレビ人が仕え、秩序だった形で礼拝がささげられていました。
ダビデはすでに神殿礼拝の準備として、レビ人の中から歌い手や奏楽者を任命し、礼拝の音楽を制度として整備していました。
ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。(歴代志上25章1節)
礼拝における歌は、感情の自然発生にゆだねるのではなく、神に向かってささげられるものとして、秩序ある形で担われるものであることが、ここにも示されています。
その中で重要な役割を担っていたのが歌う者たちです。
ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した(歴代志下5章13節)
ここで注目すべきは、「声を合わせて」という表現です。賛美は単独の行為ではなく、複数の人が一つの声として神に向かう行為として描かれています。すなわち、賛美は共同体の一致を具体的に表す行為なのです。
また、神殿礼拝における歌は即興的なものではなく、一定の秩序と役割分担の中で行われていました。
これは、礼拝が単なる感情の発露ではなく、神に向かう秩序ある行為であることを示しています。
したがって、旧約における賛美は、個人の内面における感情を超えて、共同体全体が一つとなって神に向かう行為とされているのです。
3 初代教会における賛美
新約に入ると、神殿中心の礼拝から、信徒の集まりとしての教会へと形が変わります。しかし、賛美の本質は変わりません。
むしろ、より内面的でありながら、同時に共同体的な性格が強調されるようになります。
詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。(エペソ人への手紙5章19節)
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ人への手紙3章16節)
ここで特徴的なのは、「語り合い」という表現です。賛美は神に向かうだけでなく、信徒同士の間でも交わされるものとして描かれています。
そして、コロサイ人への手紙3章16節では、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」と前置きしているのは、賛美がそのまま聖書のみ言の相互伝達の手段でもあったことを示しています。
賛美は礼拝の一部であるとともに、信仰の内容を共同体の中で伝え合うものでもあったのです。
また、「心から」という言葉が示すように、賛美は外面的な行為にとどまらず、内面から発するものであることが強調され、旧約における秩序と新約における内面性が統合されています。
4 個人と共同体の関係
以上のことから明らかになるのは、礼拝と賛美が「個人か共同体か」という二者択一では捉えられないという点です。
個人だけに閉じた礼拝は、やがて主観的なものとなり、神との関係が曖昧になる危険を持ちます。一方、共同体だけに依存した礼拝は、形式化し、内面を伴わないものになる危険があります。
礼拝はまず個人の内面において成立し、その礼拝が共同体の中で表現されます。
そして共同体における礼拝が、今度は個人の内面をさらに形成していきます。この循環の中で、礼拝と賛美は生きたものとして保たれるのです。
したがって、共同体における賛美とは、単に多くの人が集まって歌うことではありません。それは、個々人の神との関係が一つに結び合わされ、共同の表現として現れたものなのです。
この関係は、より広い視点から見ると、人間だけでなく、すべての存在に共通する構造でもあります。すなわち、個としての目的と、全体における目的とは切り離されるものではなく、互いに支え合う関係にあります。
同様に、礼拝においても、個人の内面における関係と、共同体の中での表現とは分離されるものではありません。
個人の礼拝があってこそ共同体の礼拝が成立し、共同体の礼拝によって個人の礼拝もまた支えられるのです。
5 共同体における賛美の意味
さらに、共同体における賛美には、いくつかの重要な意味があります。
第一に、それは「一致」の表現です。異なる背景や立場を持つ人々が、同じ神に向かって声を合わせるとき、そこに共同体としての一体性が生まれます。
ローマ人への手紙15章6節に「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」とあるように、賛美は共同体を一つに結び合わせる働きを持っています。
第二に、それは「共有」の行為です。神が何をなされたのか、誰であるのかを共に歌うことによって、信仰の内容が互いに分かち合われ、保たれていきます。
詩篇105篇2節に「主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ」とあるように、賛美は信仰を互いに伝え合う働きを持っています。
第三に、それは「形成」の働きです。賛美を通して人は影響を受け、考え方や感じ方が整えられていきます。
詩篇92篇1~2節には「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために」とあり、賛美は人を形づくる働きを持っているのです。
このように、共同体における賛美は、単なる付随的な要素ではなく、礼拝の中心的な働きを担っています。
6 まとめ
本稿では、神殿礼拝と初代教会を通して、共同体と礼拝の関係を考察しました。
旧約においては、賛美は秩序ある神殿礼拝の中で、共同体が一つとなって神に向かう行為として確立されました。
新約においては、その本質が内面化されつつも、共同体の中で互いに語り合い、信仰を深め合う働きとして継承されています。
したがって、礼拝と賛美は、個人の内面と共同体の関係が交わるところに成立するものです。この両者が切り離されるとき、礼拝はその本来の力を失ってしまうでしょう。

