聖書の中の心情圏―第5回 哀れみの心情があってこそ心霊が結実

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(1)哀れみの心情があってこそ心霊が結実

 特別に私たちが注意しなければならないことは、哀れみの心をもつことです。哀れみの心を失わないでおきましょう。このような結実期に哀れみを失ってしまえば、自分の霊人体や行動全体が誤るということを記憶してください。哀れみを失わないようにしなければなりません。愛を失わないようにしましょう。他人の欠点を見るときも、その人のために祈祷し心配してやる心をもたなければなりません。その人が、よくないと、パッと切って分別したり批判せずに、心痛く思い、「実に困った、私のゆえにあのようになった」と心配をする人であってこそ、情的にも外的にも、だんだん成長するというのです。

 統一教会の信徒である私たちは、原理を誤って聞くならば、高慢になりやすいし、富みやすいのです。また、原理が分かったといって、原理の分からない人を無視しやすいのです。

 少し前に話しましたように、先生のお名前で私が世界一周したとき、「やあ! 統一教会は、良いことは良い」と思って、まかり間違えば、自分という人間を再創造する過程から脱けやすいということを感じました。自分を再創造することから脱け出る危険があります。「自分」という人間を再創造するために教会に入ってきたのに、まかり間違えば自分を肯定して、このような環境圏内でまた、誤りやすいのです。

(中略)

 今日まで神の摂理が挫折した理由は何でしょうか、イエス様が十字架に行かれた理由は何かと、神の事情を知っていかなければなりません。ペテロは、自分を肯定する信仰をしたので逃げ出すようになったのです。結局、自分を愛したというのです。一言で言うならば、主と分かれて自分を肯定するので、神の怨讐になったということを、私たちは歴史を通じて見ました。それで、きょうこの時間、初めの行為をよく保管していくならば素晴らしくなることができるということを申し上げるのです。

 ここに座っておられる皆さんの中に、収支を合わせようとして入ってきた人がどこにいますか。原理を聞き、み旨を知って、み言の前に屈伏するようになりました。それは、善なる心です。自分を否定し、原理を肯定しました。ですから、善なる心ではないでしょうか?

 人がみ言を聞いて「信じます」と言うのは、善なる心の始まりです。その初めの行為を捨てないでおきましょう。むなしく眠っていて、過程で自分を肯定し、主体者を失って出ていった人がいます。統一教会をやめた人はいるのですが、その理由は初めの行為を持続せずしては、行くことができない道だからです。

 皆さん、きょう、この三つの教会の称賛ととがめを通じて、心にとどめておかなければならない教訓は、哀れに思う心を保管しようということです。哀れみです。涙で悔い改める者は、哀れみを受けることができるし、また、他人を哀れに思うことができるのです。

 皆さん、哀れみの心情を抱いていきましょう。哀れみの心情とは、神のように善なる人を見れば慕うようになり、自分より出来の悪い人を見るならば、かわいそうに思うようになる心です。その心をもっていってこそ終わりの日に結実すると考えて、きょう、「初めの行為をよく保管しよう」という題目で語りました。(『聖書の中の心情圏』p327「哀れみの心情があってこそ心霊が結実」より)

(2)解説

1 結実期における決定的要素 ―哀れみの心

この教えの中心は、「哀れみの心情こそが心霊の結実を左右する」という点にあります。

信仰生活には成長の過程があり、やがて「結実期」と呼ばれる段階に至ります。この段階において何より重要なのが、哀れみの心を失わないことだとされています。

ここでいう哀れみとは、単なる同情ではありません。他者の状態を見て、それを自分とは無関係なものとして切り離すのではなく、自分のことのように痛む心を意味しています。

もしこの結実期において哀れみを失うならば、霊的な存在としての基盤そのものが歪み、行動全体にも誤りが生じると警告されています。

したがって、愛を保つことと哀れみを保つことは、信仰の完成において不可分の関係にあるのです。

2 他者を見る視点―共感

本文では、具体的に他者の欠点を見るときの態度を示しています。

人は他者の弱さや誤りを見たとき、容易に批判し、切り捨てる判断を下しがちです。しかしここでは、そのような態度が信仰的には誤りであると指摘されています。

むしろ求められているのは、その人のために祈り、心配する心です。「自分のゆえにあのようになったのではないか」と感じる心を持つことが、真の成長につながるとされます。

この姿勢は、自分と他者を分離するのではなく、関係の中で捉える見方です。他者の問題を他人事として処理するのではなく、自分の責任の延長として感じるところに、心情の深まりがあります。

そのような心を持つ人こそ、内面的にも成長し、外面的にも発展していくと語られています。

3 原理理解の落とし穴―高慢

次に指摘されるのは、原理を知ることによって生じる危険性です。

本来、み言を知ることは謙遜を深める契機となるべきですが、逆にそれが高慢を生む場合があると警告されています。理解したことによって、自分が優れていると感じ、理解していない人を軽んじるようになるという問題です。

これは信仰において非常に深刻な問題です。なぜなら、知識の増加が本来目指すべき「自分の再創造」から逸脱させるからです。

本来、教会に入る目的は、自分自身を変えることにあります。しかし、環境や立場に安住し、自分を肯定し始めるならば、その目的は失われてしまいます。

したがって、理解が深まるほどに、自分を低くし続ける姿勢が求められているのです。

4 歴史に見る教訓―自己肯定の危険

この問題は歴史的事例によってさらに強調されます。

ペテロがイエスを否認した出来事は、自分を守ろうとする心、すなわち自己肯定の結果であると説明されます。

彼は主に従っていたにもかかわらず、最終的には自分を優先し、その結果として主から離れることになりました。

ここから導かれる教訓は明確です。信仰において最大の危険は、自分を肯定し始めることにあるということです。

主に結ばれる道は、自分を否定し、主体を中心に据えることによって開かれます。逆に、自分を中心に据えるならば、結果として神の方向とは反対に進むことになるとされます。

5 初めの行為を保つということ

本文は繰り返し、「初めの行為を保つこと」の重要性を強調します。

人がみ言に出会い、「信じます」と応える瞬間には、自己を否定し、真理を受け入れる純粋な心があります。この初めの姿勢こそが、信仰の出発点です。

しかし、その後の歩みの中で、人は次第に自分を肯定し始め、主体を見失う危険にさらされます。その結果、道を離れてしまう人も出てきます。

したがって、信仰生活とは、新しい何かを付け加えることではなく、この初めの姿勢をいかに保ち続けるかという問題であると言えます。

6 哀れみの心情と悔い改め

最後に、哀れみと悔い改めの関係が示されてます。

涙で悔い改める者は、哀れみを受けると同時に、他者を哀れに思うことができるようになります。つまり、自分の弱さを知ることが、他者への理解と共感を生むのです。

ここで語られる哀れみとは、神の心情に近づくことを意味します。善なる人を見れば慕い、未熟な人を見れば見下すのではなく、かわいそうに思う心を持つこと。それが神に似た心であるとされています。

この心情を持ち続けることによってこそ、終わりの日において真の結実に至ると結論づけられています。

まとめ

他者を裁くのではなく心配する心、自分を高めるのではなく否定する姿勢、そして初めに抱いた純粋な信仰を守り続けること。これらが一つに結びつくとき、人は真の成長に至ります。

信仰とは知識の蓄積ではなく、心情の深化であり、その中心にあるのが哀れみの心です。

この心を失わずに歩むことこそが、最終的な結実へと至る道であると言えるでしょう。

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