聖書から見た共産主義の起源―第6回 神への愛か、神への怨みか

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1 共産主義の起源を探る旅の終わりに

本シリーズでは、「共産主義はどこから生まれたのか」という問いを出発点として考察を進めてきました。

一般には、共産主義は経済格差や社会的不平等から生まれた思想として説明されることが少なくありません。しかし本シリーズでは、その背後にあるより深い精神的な問題に注目してきました。

そして見えてきたのは、共産主義の起源を探ることは、単に一つの政治思想の歴史を調べることではなく、人間がどのようにして神から離れていくのかという過程を探ることであるという事実でした。

第1回で、文明は一人の人間を拡大したような存在であるという視点を確認しました。一人の人間の中に起こることは文明にも起こり、文明に起こることは個人の中にも見いだすことができます。

そのため、共産主義の起源を考えることは、遠い歴史上の出来事を研究することではなく、私たち自身の心の問題を見つめることでもあるのです。

 

2 人間の前には二つの道がある

人間は人生の中でさまざまな出来事に直面します。喜びもあれば苦しみもあります。祈りがかなえられることもあれば、なかなか答えが見えないこともあります。理解できる出来事もあれば、どうしても理解できない出来事もあります。

しかし、そのような状況に置かれたとき、人間の進む道は大きく分けて二つしかありません。

一つは、神への愛から信頼と信仰へと向かう道です。

人は神を愛することによって神を信頼するようになります。そして神を信頼することによって信仰を深めていきます。

たとえ理解できない出来事に直面したとしても、神には自分には分からないみ心とご事情があると信じることによって、神との関係を保ち続けることができます。

もう一つは、神への失望から不信と否定へと向かう道です。

理解できない苦難に直面したとき、その出来事を通して神への不満が生じ、その不満が解決されないまま蓄積されると不信へと変わっていきます。

そして不信はやがて神への反発となり、最後には神そのものを否定するところに至ることがあります。

この二つの道は、すでに聖書の中にも見ることができます。ヨブの道は神への愛から信頼へと向かう道であり、カインの道は失望から不信へと向かう道でした。

ヨブは理解できない苦難の中でも神との関係を捨てませんでしたが、カインは自らの失望と怒りを克服することができず、神からさらに離れていきました。

この二人の姿は、本シリーズで考察してきた二つの道を象徴的に示しているということができます。

本シリーズで見てきたのは、この後者の道が個人だけでなく文明全体にも起こり得るということでした。

 

3 信仰の出発点は神への愛である

イエスは最も重要な戒めについて尋ねられたとき、次のように語られました。

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」(マタイ福音書22章37節)

イエスはまず神を愛することを語られました。信仰の出発点は知識ではありません。制度でもありません。神学でもありません。神への愛です。

神を愛するから神を信頼します。神を信頼するから信仰が生まれます。そして信仰があるからこそ、人は苦難の中でも神との関係を失わずに歩むことができます。

本シリーズで繰り返し見てきたヨブは、その代表的な人物でした。

彼は理解できない苦難に直面しましたが、最後まで神との関係を捨てませんでした。それはヨブが神のすべてを理解していたからではありません。理解できなくても神を信頼していたからです。

 

4 神への失望はどこへ向かうのか

一方で、人は神への愛を失うことがあります。神に期待していたにもかかわらず現実が変わらないとき、人は失望します。

そして、その失望を神との対話によって乗り越えることができなければ、不満や反発が心の中に蓄積されていきます。

パウロは、人間はもともと神を知ることができると述べています。

 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。(ローマ人への手紙1章20節)

その上でパウロは次のように続けます。

 彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。(ローマ人への手紙1章21節)

ここで注目すべきことは、「神を知らなかった」のではなく、「神を知っていながら」という点です。

つまり問題は、神を知っているか知らないかという知識の問題ではありません。神を愛し、神を信頼し、神に感謝するという、神と自分との心情関係の問題なのです。

神への愛と感謝を失うとき、人はしだいに神への信頼も失っていきます。そして、その信頼を失った心は神への不信へと向かい、不信はやがて神への否定へと発展していきます。

本シリーズで考察してきた共産主義も、この流れの中で理解することができます。

共産主義は神を知らないところから生まれた思想ではありません。むしろ神を信じていた文明が神への信頼を失っていく過程の中から生まれた思想だったのです。

 

5 文明もまた一人の人間のように歩む

第1回で取り上げたように、『原理講論』の123頁には、「創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会である」という記述があります。

この観点から見ると、キリスト教文明の歴史は、一人の信仰者が神への信仰を失っていく歩みと驚くほどよく似ています。

初代教会には神への愛がありました。その愛は人々を結び付け、迫害の中でも希望を失わせませんでした。

しかし、歴史が進むにつれて制度化が進み、信仰が形式化し、神への愛が弱まる時代が現れました。そして、神への愛が弱まると神への期待はしだいに失望へと変わり、その失望は不信を生み、やがて神を否定する思想が力を持つようになりました。

本シリーズ全体を振り返るならば、初代教会から共産主義に至る歴史は、一人の信仰者が神への愛を失い、失望と不信を経て神から離れていく過程を、文明規模に拡大した姿として理解することができます。

これは一つの文明に起こった出来事であると同時に、一人の人間の心の中にも起こり得る出来事です。

だからこそ、歴史は過去の話ではなく、私たち自身への教訓でもあるのです。

 

6 共産主義の起源が問いかけているもの

本シリーズでは、共産主義の起源を一神教と無神論の関係、神への期待と失望、そしてキリスト教文明の歴史という観点から考察してきました。

そして最終的に見えてきたのは、共産主義の問題は単なる政治思想の問題ではなく、神と人間との心情関係の問題であるということでした。

神への愛から出発すれば、人は信頼と信仰の道を歩みます。しかし神への失望から出発すれば、不信と否定の道へ向かうことがあります。

この二つの道は文明の中にも現れますが、その出発点は常に一人の人間の心の中にあります。文明とは、一人一人の人間の心が積み重なって形づくられるものだからです。

したがって、共産主義の起源を探ることは、人間が神から離れていく過程を探ることであり、同時に私たち自身の信仰を見つめ直すことでもあります。

神への愛の道を歩むのか、それとも神への失望の道を歩むのか。その選択は文明だけではなく、今を生きる私たち一人一人にも委ねられているのです。

 

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