聖書に学ぶ父性の役割―第2回 父性愛と母性愛から見た父性とは

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前回は、創世記を通して、父性とは支配ではなく、神から託された責任であることを考察しました。

しかし、責任という言葉だけでは父性の本質を十分に説明することはできません。父性とは単なる役割ではなく、一つの愛のかたちだからです。

また、父性を語るときには、母性についても併せて考える必要があります。

神は家庭の中に父と母を立てられましたが、それは2人が同じ働きをするためではありません。それぞれ異なる愛を通して、1人の人間を健全に育てるためでした。

今回は、聖書が示す父性愛と母性愛について考えてみたいと思います。

 

1 父性と母性はどちらも神から来ている

聖書は神を「父」として啓示しています。イエスも神を「天の父」と呼び、私たちにも「天にいますわれらの父よ」と祈るよう教えられました。

その一方で、神はご自身の愛を母親の愛にたとえて語られることもあります。

 母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。(イザヤ66章13節・新共同訳)

この聖句は、神が父でありながら、母のような深い慰めと慈しみをもって人を愛しておられることを示しています。つまり、父性と母性は互いに対立するものではなく、どちらも神の愛の表れなのです。

そのため、父性を重視することは母性を軽視することではなく、母性を語ることも、父性を否定することではありません。

神は家庭の中にこの二つの愛を置き、それぞれを通して子どもを育てようとされました。父性愛と母性愛は優劣の関係ではなく、神が備えられた補完的な愛として理解する必要があります。

 

2 母性愛とは何か

母性愛の特徴は、まず受け入れることにあります。子どもは生まれたばかりのとき、自分では何一つできません。

その存在をそのまま受け入れ、守り、育て、安心できる居場所を与えることが母性愛の最も大きな働きです。

子どもは、そのような愛を受けながら、「自分は愛されている存在だ」という安心感を育んでいきます。

失敗したから見捨てられるのではなく、弱いから拒絶されるのでもありません。ありのままの自分を受け止めてもらえる経験は、人が健全な人格を形成していく上で、欠かすことのできない土台となります。

神がご自身の愛を母親の愛にたとえられたのも、このような無条件の慰めと受容を伝えるためと言えるでしょう。人はまず受け入れられることによって心が育ち、その上に人格が築かれていくのです。

 

3 父性愛とは何か

これに対して父性愛は、人を成熟へと導く愛です。それは単に厳しく接することではありません。秩序を教え、責任を担わせ、善悪の境界線を示しながら、一人の人格として自立できるよう導く愛です。

そのため父性愛には、時として訓練が伴います。しかし、その訓練は相手を思いどおりに支配するためではなく、成長を願うがゆえに与えられるものです。

聖書は、「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12章6節)と語っています。

神は愛するからこそ訓練されるのであって、訓練は愛の反対ではなく、愛そのものの一つの表れです。

また、父性愛には「任せる」という特徴があります。必要なことは教えますが、いつまでも手を引いて歩くことはしません。子どもの成長を信じ、自ら考え、自ら責任を負うことができるよう、時には黙って見守ります。

それは無関心だからではなく、その子の可能性を信頼しているからです。父性愛とは、責任を教えるだけでなく、その責任を果たせる人格に育てようとする愛でもあるのです。

 

4 父性が生み出す「憧れ」の力

父性愛には、もう一つ重要な働きがあります。それは、子どもの心に「父のようになりたい」という憧れを育てることです。

子どもは、尊敬する人の生き方を自然と真似るものです。父が何を語ったか以上に、どのように生きているかを見ています。

責任から逃げない姿、約束を守る姿、人を思いやる姿勢、その一つ一つが子どもの人格に刻まれていきます。

ですから、父性とは、命令によって人を動かすことではなく、自らの生き方によって道を示すことなのです。

イエスは、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)と言われました。

また、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ福音書5章19節)とも語られています。

イエスご自身が父なる神を見つめ、その御心を受け継ぎ、その業を行われました。ここには、真の父性が「父のようになりたい」という憧れを生み出す力であることが示されています。

 

5 祝福と戒めに見る創造の秩序

前回見たように、神は男性と女性を共に祝福されました。しかし、善悪を知る木についての戒めは、まずアダムに与えられました。

祝福も戒めも、どちらも神の愛の表れです。祝福は人を生かし育てる愛であり、戒めは人を守り成熟へ導く愛です。

そこには、男女の価値の違いではなく、家庭の秩序を支える責任をまずアダムが担うという創造の秩序が示されています。

このように見ると、父性とは、家庭において責任を担う主体性であることが分かります。それは権利を主張する立場ではなく、自ら神の前に立ち、家庭を神の秩序へ導く責任を負う立場なのです。

 

6 なぜ父性と母性の両方が必要なのか

人格は、一つの愛だけでは十分に育ちません。受け入れられることだけでは、自立した人格には成長できませんし、訓練だけでは安心して人生を歩むことはできません。

母性愛は人格の土台を築き、父性愛はその人格を成熟へ導きます。一方は人に安心して立つ場所を与え、もう一方はその場所から責任ある人生へ踏み出す力を育てます。

神が家庭の中に父と母を置かれたのは、この二つの愛を通して1人の人間を完成へ導くためでした。

今日、父性と母性はしばしば同じものとして語られるか、あるいは対立するものとして理解されることがあります。しかし聖書が示しているのは、そのどちらでもありません。

神は家庭を通して、この二つの愛を子どもに経験させようとされました。

 

7 現代社会への問い

現代では、「父性」という言葉に対して否定的な印象を抱く人も少なくありません。そのため、責任を教え、境界線を示し、人格を鍛える働きまでもが、権威主義や支配と混同されることがあります。

その結果、家庭の中で受容は大切にされても、訓練や責任を教えることが難しくなりつつあります。

また、父親が家庭にいても、子どもが「この人のようになりたい」と思える父性が十分に示されていないこともあります。

もし父性愛が弱まれば、その影響は家庭の中だけにとどまりません。子どもの人格形成にも、さらには社会全体にも及んでいくことになります。

 

8 まとめ

父性愛と母性愛は、どちらも神の愛に由来するものであり、互いに補い合うために家庭へ与えられました。

母性愛は受け入れ、守り育てる愛であり、父性愛は責任を教え、人格を成熟へ導く愛です。そして父性愛には、子どもの心に「父のようになりたい」という憧れを育てるという大切な働きがあります。

父性とは単なる役割ではなく、一つの愛のかたちです。その愛が正しく理解され、家庭の中で健全に発揮されるとき、子どもは安心と責任の両方を学びながら成長していくことができるでしょう。

次回は、父性の喪失が家庭や社会にどのような影響を与えるのかを、聖書の視点から考えていきます。

 

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