聖書の中の心情圏―第4回 心情の因縁を結ぼうとするならば

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(1)心情の因縁を結ぼうとするならば

 右側の強盗には、情的に主の価値が分かりました。その点は、実に良かったのです。また、情的に復活をしました。情的に主に対する愛着と価値を感じたということです。この右側の十字架の信仰は、情的に主に対する事情を感じ、主を大切に思ってすがる心があったのです。それで「楽園に行かれるとき、私を記憶してください」と切に要請したとき、主が「きょう、わたしと一緒に楽園にいるであろう」と答えてくださいました。情的に相当に近くなったので楽園に共に行くようになったということです。

 人が情的になじむならば一緒に生きるようになり、情的にひびが入れば別れるようになります。情的に疎通がなされるならば、肉身は離れていても心は共に生きるようになるのです。そして、あの世に行くならば本当に一緒に生きるようになります。イエス様も右側の信仰者が情的にすがりますから、一緒に行こうと言われました。

 マリヤという女性が油を注ぎながら主が去られるのを痛哭するときに、「私のみ言が伝えられる所に永遠に記憶する」と称賛なさいました。その人は、地上で永遠なる天の国に登録されたのです。何で登録されたのかといえば、涙で登録されました。その涙は結果であり、情的に登録されたといえるのです。イエス様と情で因縁を結んだのです。

 今日、私たちの教会ではこのような人はまれです。左側の十字架の信仰者は多いのですが、右側の十字架の信仰者はまれです。右側の十字架の信仰者は、原理的には、信仰の基台をもった人であるということができます。祝福を受ける前段階まで来た信仰者だと見るのです。

 統一教会に入ってきて祝福を受ける人であるならば、少なくとも右側の十字架の信仰はもたなければならないということができます。右側の十字架を負った人は、大変、重要な方です。主が地上におられるとき従わなかったとしても、その心が立派であるということは証明されます。主が過ちもないのに十字架を負われると、そのように痛々しく思っていた右側の強盗の心を見るならば、主が悲しみを抱いて入って来られるときに痛哭していたマリヤと同じく、実に驚くべきことです。これは普通の人ではありません。

 私たちは自分の気がくさるならば、他人が気をくさらせるのを心配するひまがないし、自分が空腹ならば、他人の事情を知る余裕がなくなります。自分がやるせなければ、自分よりももっとやるせない方を心配する余裕がなくなるのです。ところが、この右側の強盗は、自分の体から血がたらたら流れるのにイエス様のことを心配することができたというのです。これを見るならば、彼はイエス様と心情的に近い人です。

 イエス様も神のみ旨をもって来られて、他人が不信することをご自身が背負い、ご自身の体に苦痛がありながらも心配されました。右側の強盗は、それと同じです。善なる方を心配したというその心は、いかばかり驚くべきことでしょうか?

 それは、自分が食べたいものを食べず、父母に召し上がってくださいと勧める孝子女にもつながります。互いに和睦する家庭を見れば、子供たちが、自分の苦労が多いときでも、父母の苦労の多いのを先に心配します。また、教会でも自分が苦労するたびに、教会の責任者はいかばかり苦労が多いことかと心配する信徒もいます。自分の考えを主体とする分別のつかない信徒もいますけれども、自分の心配事を通じてより主体者を心配する孝誠に満ちた信徒もいるのです。(『聖書の中の心情圏』p306「心情の因縁を結ぼうとするならば」より)

(2)解説

1 右側の強盗に見る「情的信仰」

本文の中心にあるのは、十字架上の「右側の強盗」の姿です。

この人物は、知的にイエスを理解したわけでも、長年従ってきた弟子でもありませんでした。しかし彼は、十字架の上という極限の状況において、イエスの価値を「情的に」理解しました。

ここでいう「情的」とは、単なる感情ではなく、心情的な共鳴を意味します。彼は、苦しむイエスの姿を見て、その無念さ、正しさ、尊さを直感的に感じ取ったのです。

その結果、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と願い出ます。

この言葉は、単なる救いの要求ではなく、イエスに対する深い信頼と愛着の表現です。

それに対してイエスは、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカによる福音書23章43節)と応えられました。

これは、情的な一致が成立した結果として、共に楽園に入っていく関係が結ばれたことを意味しています。

2 情的関係が決定する「共に生きる」か「離れる」か

本文はさらに、「情的な関係」が人間関係の本質であることを強調します。

人は、情的に通じ合うならば共に生きるようになり、情的にひびが入るならば離れるようになるというのです。ここで重要なのは、物理的な距離ではなく心情的な距離です。

たとえ肉体が離れていても、情的に結ばれていれば心は共にあり、逆に近くにいても、情的に断絶していれば共に生きているとは言えません。

この理解は、霊的な世界にもそのまま延長されます。すなわち、情的に結ばれた関係は、死後においても持続し、共に存在するようになるとされます。

右側の強盗がイエスと共に楽園に行ったのも、この情的な一致によるものだと説明されているのです。

3 涙による登録―マリヤの心情

同様の例として、マリヤの行動が取り上げられます。彼女は、イエスが去られることを深く悲しみ、涙を流しながら香油を注ぎました。

この行為に対してイエスは、「よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイによる福音書26章13節)と語られました。

ここで強調されているのは、その行為の外面的な価値ではなく、内面的な心情です。マリヤは、イエスの事情に共鳴し、その悲しみを自分のものとして感じ取っていました。

本文では、これを「涙で登録された」と表現しています。つまり、天の国における価値は、知識や功績ではなく、心情によって刻まれるという理解です。

これは、右側の強盗と同様に、「情によって因縁が結ばれる」ことを示す具体例です。

4 右側の信仰と左側の信仰

本文はさらに、右側の強盗と対比される左側の信仰者に言及します。

左側の強盗は、同じ状況にありながら、イエスを理解することができませんでした。これは、外的条件が同じであっても、内面的な状態によって結果が大きく異なることを示しています。

「統一原理」で言えば、右側の強盗の信仰は「信仰基台」を持った段階にあるとされ、祝福に至る前段階の信仰として評価されます。

つまり、単に信じるという段階を越えて、心情的に主と結ばれる段階に入っているということです。このような信仰が、真の関係形成の基準とされているのです。

5 極限状況に現れる心情の真価

右側の強盗の特筆すべき点は、自らが極限の苦しみの中にありながら、なおイエスのことを思いやったという点です。

通常、人は自分が苦しいとき、他者を顧みる余裕を失います。しかし彼は、自分の痛みを越えて、イエスの苦しみに心を向けることができました。

これは、単なる同情ではなく、深い心情的同一性を示しています。自分の立場を越えて、より大きな存在の事情を感じ取ることができる心、それがここで評価されているのです。

この姿は、イエスご自身が人々の不信や苦しみを背負われた姿とも重なります。すなわち、善なる存在のために心を痛めるという点において、同質の心情が見いだされるのです。

6 日常における心情の実践

本文は最後に、この心情が日常生活の中でも現れるべきものであることを示します。

たとえば、食べ物を自分のために取るのではなく、父母に勧める子女の姿や、自分の苦労よりも父母や責任者の苦労を先に心配する姿が挙げられます。

ここで語られているのは、「主体を先に思う心」です。自分中心ではなく、より大きな存在を優先して考える姿勢こそが、心情の成熟を示すものとされています。

教会生活においても同様であり、自分の事情にとらわれるのではなく、全体や主体者の事情を思う信徒こそが、真の信仰を歩んでいるとされます。

まとめ

本稿で語られている核心は、「心情によって因縁が結ばれる」という点にあります。

右側の強盗やマリヤのように、主の事情を自分のものとして感じる心があるとき、人は主と深く結ばれるようになります。その関係は、単なる知識や形式を超え、存在そのものを結びつけるものとなります。

信仰とは、正しい理解を持つことだけではなく、主の心情にどれだけ近づくことができるかという問題です。そしてその心情は、極限状況だけでなく、日常の小さな行動の中にも現れます。

自分を中心とするのではなく、主体を思い、他者を思う心。このような心情をもって生きるとき、人は真の意味で天と因縁を結ぶ存在となるのです。

 

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