聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第2回 聖書における自己否定と自己信頼

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1 聖書はなぜ自己否定を求めるのか

本シリーズの第1回では、「自分を信じること」という命題が誘惑克服の最終段階に位置づけられることを確認しました。

ここで聖書における一つの重要な問題に直面します。それは、聖書が繰り返し「自分を捨てよ」と教えているという事実です。イエスは次のように語られました。

 だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 (マタイ福音書16章24節)

このみ言は、信仰の出発点として自己否定が不可欠であることを明確に示しています。

また旧約聖書も、「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」(箴言3章5節)と教えています。ここでも自分自身の判断や理解に依存することが否定されています。

このように聖書全体を通して見られるのは、そのままの自分に依拠することに対する強い警告です。すなわち、聖書はまず「自分に頼るな」という立場から出発しているのです。

 

2 自己信頼は誤りなのか?

もし聖書が徹底して自己否定を求めているのであれば、自分を信じるという考え方は誤りなのでしょうか。

この問題を考えるとき、聖書が否定している「自己」と、信仰によって形成される「自己」とを区別して考える必要があります。

聖書が否定しているのは、「すべての自己」ではありません。神のみ旨よりも自分の欲望や考えを優先する自己、すなわち神を中心としない自己を否定しているのです。

 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブの手紙1章14~15節)

ヤコブの手紙が述べているように、このような自己は欲によって容易に誘惑へと引き込まれてしまいます。

このような自己に依拠することは、結果的に誘惑に従うことにつながるため、自己信頼は確かに危険であり、聖書がそれを警戒するのは当然と言えます。

一方で、聖書は人間の内に新しい自己が形成されることも示しています。使徒パウロは次のように語っています。

 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。(ガラテヤ2章20節)

ここには、欲や恐れに支配される古い自己とは異なる、新しい自己の成立が示されています。ここに「自己否定」と「自己信頼」の関係を理解する鍵があります。

 

3 否定される自己と肯定される自己

この問題を正しく理解するためには、「自己」という言葉を区別して考える必要があります。つまり、否定されるべき自己と、肯定されるべき自己が存在するということです。

否定される自己とは、神から切り離された自己です。この自己は、自分の欲望や感情、あるいは周囲の影響に従って動きます。そのため、判断の基準が常に揺れ動き、誘惑に対して抵抗力を持つことができません。

これに対して、肯定される自己とは、神に基づいて形成された自己です。この自己は、神のみ言を内面化し、良心を通して神の意志を受け取ることができる主体です。この段階で人間の内には新しい基準が確立されます。

パウロは、「あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4章22〜24節)と述べています。

ここで語られているのは、単なる行動の修正ではなく、自己の質的転換です。古い自己が否定され、新しい自己が成立しているのです。

 

4 神に基づく自己の成立

このように、自己否定は自己消滅を意味するものではなく、自己の再構成を意味します。すなわち、神に基づかない自己を否定することによって、神に基づく自己が成立するのです。

コリント人への第二の手紙5章17節には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあります。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生まれているという事実は、自己否定が終点ではなく、新しい自己の出発点であることを示しています。

この過程を経て初めて、自分を信じるということが正当な意味を持つようになります。なぜなら、その「自分」はもはや単なる自己ではなく、神の意志と一致した自己だからです。

この自己は、外的な圧力や内的な欲望に左右されることなく、正しい判断を下すことができます。

したがって「自己信頼」とは、自己中心的な自分を肯定することではなく、神を中心とする主体性の確立を意味します。

 

5 結論―信じるべきは神に基づいた自己

以上の考察から、「自己否定」と「自己信頼」は対立する概念ではなく、連続した過程の中にあるということです。

まず神に基づかない自己を否定し、そのうえで神に基づく自己を確立する、この流れの中で初めて、真の意味での自己信頼が成立します。したがって、信じるべきは単なる自己ではなく、「神に基づいた自己」です。

このように理解するとき、「自分を信じること」という命題は、聖書の教えと矛盾するどころか、その完成段階として位置づけられることが分かります。

次回は、「神に信頼される人間とは何か」という観点から、信仰の成熟についてさらに考察していきます。

 

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