1 イエスが教えられた「父」
前回は、父性が失われるとき、その影響は家庭だけでなく社会全体にも及び、責任よりも権利を、使命よりも感情を優先する社会が形づくられていくことを見てきました。
そして、その根本には、人が神との関係を失い、自分自身を人生の基準とするようになったという問題がありました。
それでは、聖書は神をどのようなお方として示しているのでしょうか。イエスは弟子たちに祈りを教えられたとき、まず次のように語られました。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」(マタイ福音書6章9節)
この祈りは「主の祈り」と呼ばれ、2000年にわたって世界中のキリスト教徒が祈り続けてきました。ここで注目すべきなのは、イエスが神を「王」や「創造主」ではなく、「父」と呼ぶように教えられたことです。
もちろん、神は天地を創造された全能者であり、万物を治める王でもあります。しかしイエスは、それらの称号よりも先に、「父」という呼び方を弟子たちに教えられました。これは偶然ではありません。
なぜなら、人間と神との最も本質的な関係は、支配者と被造物との関係ではなく、父と子との関係だからです。
この「父」という呼び名の中に、神が人間をどのような存在として見ておられるのか、そして人間は神との間にどのような関係を築くべきなのかが集約されているのです。
2 父性の根源は神にある
今日、「父性」という言葉を聞くと、多くの人はまず地上の父親を思い浮かべます。しかし、聖書の視点はその逆です。
使徒パウロは、「天上と地上とにあるすべての家系の父と呼ばれるみ名の由来である父の前に、ひざをかがめて祈る」(エペソ3章14~15節)と述べています。
ここには、地上のあらゆる父性が、神の父性に由来するという理解が示されています。
聖書は、人間の父親を基準に神を理解するようには教えていません。むしろ、神の父性こそが本来の姿であり、地上の父親はその姿を学び、反映する存在と考えています。
そのため、人によって父親との関係が異なるように、神に対する印象も大きく変わることがあります。
優しい父親に育てられた人もいれば、厳しすぎる父親や無関心な父親によって傷ついた人もいます。そのような経験をそのまま神に重ねてしまうなら、聖書が語る神の父性を正しく理解することはできません。
本シリーズでは、父性愛とは責任を教え、善悪の境界を示し、人を成熟へと導く愛であることを見てきました。それは人間が考え出した理念ではなく、神ご自身の性質に由来しています。
言い換えれば、父性愛とは、神の御性質が家庭の中に映し出されたものなのです。
したがって、父性を回復するとは、昔ながらの父親像に戻ることではありません。神を父として仰ぎ、その父性に学ぶところから始まるのです。
3 神の父性は愛と秩序を一つにする
創世記を見ると、神は人間を創造された直後に、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)と祝福を与えられました。神はまず人間を愛し、その存在を肯定されたのです。
しかし、それだけでは終わりませんでした。神は続いて、「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記2章16~17節)と戒めを与えられました。
ここには、神の父性の本質がよく表れています。神は人間を愛しておられるからこそ、何をしてもよいとは言われなかったのです。
だからといって、戒めだけを与えて人間を縛ることもありませんでした。祝福と責任、愛と秩序を一つのものとして与えられたのです。
現代では、「愛があるなら自由にさせるべきだ」という考え方が広く見られます。一方で、「秩序を守らせるためには厳しく管理しなければならない」という考え方もあります。聖書はそのどちらにも偏っていません。
愛だけでは人は成熟せず、秩序だけでは人の心は育ちません。神は人間を受け入れながら、その人が本来あるべき姿へ成長できるように導かれます。
これこそが神の父性であり、本シリーズで繰り返し見てきた父性愛の源でもあるのです。
4 神の訓練は暴力ではない
「父性」という言葉に対して否定的な印象を持つ人が少なくないのは、父親の名のもとに行われた支配や暴力を数多く見聞きしてきたからでしょう。
そのようなものは、神の父性とは本質的に異なります。ヘブル書には神の訓練について次のように記されています。
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。(ヘブル書12章7節)
さらに、「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」(ヘブル書12章10節)とあります。
ここで聖書は、人間の父親と神とを対比しています。地上の父親は、ときに自分の感情や都合によって子どもを扱ってしまうことがあります。しかし、神が与えられる訓練は、決して怒りや支配から出るものではありません。
その目的は、子どもを傷つけることではなく、子どもの益となり、その人格を成熟させることにあります。
ですから、暴力や威圧は父性ではありません。真の父性とは、相手を愛するからこそ責任を教え、その人が成熟した人格へと成長することを願う愛なのです。
5 神を父と呼ぶ意味
イエスが神を「父」と呼ぶように教えられたのは、神が人間を愛しておられることを知らせるためだけではありません。父として人を導き、責任を教え、人格を完成へと導かれる方であることを示すためでもありました。
本シリーズでは、父性愛とは責任を教え、人を社会へ送り出し、自立した人格を育てる働きであることを見てきました。
そして前回は、その父性が失われるとき、家庭だけでなく社会全体が不安定になっていくことを確認しました。
その根本的な解決は、父親という立場にある人だけが努力することではありません。父性の根源である神を父として仰ぎ、その愛と秩序に学ぶところから始まります。
神との関係が回復されるとき、人は愛だけでも秩序だけでもない、両者が調和した本来の父性を理解できるようになるのです。父性は、人間がつくり出すものではなく、神から学び、家庭の中で受け継いでいくものだからです。
次回は、本シリーズのまとめとして、父性の回復なくして家庭の再建も社会の再建もないことを、聖書全体の視点から考えていきます。

