1 父性を失った社会
これまで本シリーズでは、父性の喪失が一人ひとりの人格形成にどのような影響を及ぼすのかを見てきました。父性が弱まると、忍耐力が失われ、承認欲求が肥大化し、責任を回避しやすくなり、自分の感情や欲望を制御する力も弱くなります。
このような父性の喪失の影響は、個人だけにとどまりません。責任を回避し、自分の感情や欲望を優先する人が増えると、家庭だけでなく、社会全体の在り方も大きく変わっていきます。
父性は人を支配する権力ではありません。責任を担い、秩序を守り、人を成熟へと導く働きです。そのため、父性が失われると、社会全体から責任を担う主体が弱まり、秩序よりも自分の権利や感情が優先される傾向が強くなります。
父性喪失の問題は家庭教育だけの問題ではありません。それは社会全体の健全性にも深く関わる問題なのです。
2 責任より権利が優先される社会
現代社会では、「権利」という言葉が語られる機会は増えましたが、それと対になる「責任」について語られる機会が少なくなっているように思われます。
もちろん、人間の権利は神から与えられた尊いものです。しかし、聖書は権利だけを主張する生き方を教えてはいません。
使徒パウロは、「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ書5章13節)と語っています。
聖書が教える自由とは、自分の思いどおりに生きることではなく、愛をもって責任を果たすための自由なのです。
ですから、神はアダムとエバに祝福を与えられると同時に、善悪を知る木の実についての戒めも与えられました。祝福と責任は、最初から一つのものとして示されていたのです。
責任を伴わない自由は、やがて放縦へと変わります。そして、権利だけを求める社会では、「誰かが責任を負うだろう」という考え方が広がりやすくなります。
父性愛が育てようとする人格は、「私にはどのような権利があるか」よりも、「私は何を果たすべきか」を問い続ける人格なのです。
3 抱き寄せる愛と送り出す愛
第2回で見たように、母性愛は受け入れる愛、父性愛は成熟へ導く愛でした。この違いは、「抱き寄せる愛」と「送り出す愛」という言葉でも表すことができます。
神は家庭に父性愛と母性愛という二つの愛を与えられました。
母性愛は、子どもの存在を受け入れ、守り、安心を与える愛です。子どもは母性愛によって、「自分は愛される存在である」という土台を築いていきます。
一方、父性愛は、責任を教え、善悪の境界を示し、家庭の外の社会へ送り出す愛です。子どもは父性愛によって、自分の感情だけではなく、使命や目的に従って生きることを学びます。
しかし、抱き寄せる愛だけでは、人は自立することができません。また、送り出す愛だけでは、安心して挑戦する勇気を持つこともできません。
神は、抱き寄せる愛と送り出す愛、その両方を家庭に備えられました。人格の成熟とは、この二つの愛に支えられながら、自ら責任を担い、社会へ歩み出していくことなのです。
4 父性愛と母性愛の均衡を失った社会
神は家庭に、抱き寄せる愛と送り出す愛という二つの愛を備えられました。しかし現代では、この均衡が少しずつ崩れつつあります。
父性愛はしばしば「厳しさ」や「支配」と混同されます。確かに、力によって人を支配することは父性愛ではありません。
その誤解から、責任を教えることや善悪の境界を示すことまで否定されるなら、人格形成は大きく偏ってしまいます。
母性愛は、人の存在を受け入れるために欠かせない愛です。しかし、それだけでは自立や責任感は十分に育ちません。
家庭と社会を結ぶ橋渡しを担う父性愛が弱まると、人は安心できる環境にとどまろうとし、社会へ踏み出す勇気を持ちにくくなります。
父性愛と母性愛は対立するものではありません。神が与えられた二つの愛が互いに補い合うとき、人は家庭の中で安心を得るだけでなく、社会の中で責任を担う人格へと成長していくのです。
5 聖書が描く父なき社会
第3回でも触れたように、聖書には、父性が失われた社会の姿が象徴的に描かれています。士師記の最後に、イスラエルの混乱した時代について、次のように記されています。
そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。(士師記21章25節)
ここでいう「王がなかった」とは、単に政治的な指導者が不在であったという意味だけではありません。
人々が神の権威を受け入れず、自分自身を人生の基準として生きるようになった状態を表しています。
神を父として仰ぐ心を失ったとき、人は自らを治める基準も失い、それぞれが自分の判断を正しいと考えるようになりました。その結果、社会全体の秩序は次第に崩れていったのです。
さきほど紹介したように、新約聖書でも使徒パウロは、自由について次のように語っています。
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。(ガラテヤ書5章13節)
聖書が教える自由とは、自分の欲望のままに生きることではありません。神を愛し、人を愛する責任を果たすことのできる自由です。
父性の根源は神にあるので、人が神との関係を失うとき、父性もまた家庭や社会の中から少しずつ失われていきます。
その結果、使命よりも感情を、責任よりも権利を優先するようになり、それぞれが自分の基準で生きる社会が形づくられていくのです。
父なき社会とは、父親がいない社会という意味ではなく、神を父として仰ぎ、その権威を受け入れる心が失われた社会のことなのです。
6 まとめ
父性の喪失は、個人の人格形成にとどまらず、社会全体の秩序をも揺るがします。
責任より権利、使命より感情が優先される社会は、士師記に描かれた「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」時代と重なります。
父なき社会を克服する道は、神を父として仰ぎ直すことから始まるのです。
次回は、このような父性の喪失が、子どもたちの人格形成や次の世代へどのように受け継がれていくのかについて考えていきます。

