聖書に学ぶ父性の役割―第7回 父性が育てる自己統制

この記事は約5分で読めます。

前回は、人間が神との関係を失うと、自らが担うべき責任を他者へ転嫁するようになることを考察しました。そして、その責任回避の起源は、人類最初の堕落の場面にまでさかのぼることを見てきました。

父性が失われることによって現れる問題は、それだけではありません。もう一つの大きな特徴は、自分の感情や欲望、衝動を制御する力が弱くなることです。

現代社会では、「自分の気持ちに正直に生きること」が重視される傾向があります。しかし、感情や欲望のままに行動することと、自分らしく生きることは同じではありません。

聖書は、人間の人格とは、本能や衝動に支配されるものではなく、それらを正しく治めることによって形成されると教えています。今回は、父性と自己統制の関係について考えてみたいと思います。

 

1 人格とは自分を治める力

聖書は、真の強さとは他人を支配することではなく、自分自身を治めることにあると教えています。箴言には次のような言葉があります。

 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。(箴言25章28節)

古代において城壁は町を守る最後の防壁でした。その城壁が崩れてしまえば、外からの攻撃に対して無防備になります。

同じように、自分の感情や欲望を制御できない人は、外からの誘惑や内側から湧き上がる衝動に容易に支配されてしまいます。

父性愛が育てようとする人格とは、このような自己統制のできる人格なのです。

 

2 カインが制御できなかった怒り

聖書の中で、衝動を制御できなかった最初の人物として描かれているのがカインです。

弟アベルのささげ物が受け入れられ、自分のささげ物が受け入れられなかったとき、カインは激しく怒りました。そのとき神は、カインに次のように語られます。

 罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4章7節)

神は怒りそのものを責められたのではありません。怒りに支配されるのではなく、それを治めるように求められたのです。

しかし、カインはその怒りを制御することができず、ついに弟アベルを殺してしまいました。

衝動は一瞬ですが、その結果は人生を大きく左右します。人格とは、その一瞬を治める力とも言えるでしょう。

 

3 エサウが制御できなかった食欲

エサウは長子として生まれながら、その権利を一杯の煮物と引き換えに手放しました。

そのとき彼は、「わたしは死にそうだ。長子の権利など、わたしに何になろう」(創世記25章32節)と言い、その場の空腹を優先して長子の権利をヤコブに譲ってしまったのです。

彼は目の前の空腹を満たすことを優先し、将来与えられる祝福の価値を軽んじました。

もちろん、空腹になること自体は罪ではありません。問題は、その場の欲求が人生の重要な判断を支配してしまったことでした。

この出来事について新約聖書は、「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウ」(ヘブル書12章16節)と記し、目先の欲求に支配された姿を戒めています。

父性愛が育てようとする人格は、目先の欲望よりも、将来の使命や目的を優先する人格です。人格とは、「今ほしいもの」よりも、「本当に大切なもの」を選び取る力でもあるのです。

 

4 サウル王が制御できなかった恐れ

イスラエル最初の王サウルもまた、自らの感情を制御することができませんでした。

サウルは、預言者サムエルから「わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」(サムエル記上10章8節)と命じられていました。

それにもかかわらず、サウルは民が離れていくことへの恐れから、七日間待ち続けましたが、サムエルが来る前に自ら燔祭をささげてしまいました。

その後、サムエルからその行為を問われると、サウルは「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」(サムエル記上13章11~12節)と弁明しています。

恐れを感じること自体は罪ではありません。しかし、恐れに支配され、神の命令よりも目の前の状況を優先してしまったことが問題でした。

父性愛が育てようとする人格は、そのような状況にあっても、感情ではなく、神のみ言と使命に基づいて判断できる人格です。

 

5 御霊の実としての自己統制

新約聖書では、自己統制は人格の成熟を示す大切な実として語られています。たとえば使徒パウロは、御霊の実として次のように記しています。

 御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(ガラテヤ書5章22~23節)

ここで最後に挙げられている「自制」とは、自分を治める力です。聖書は、人間の本能や感情を否定しているのではありません。

それらを人格によって正しく導くことを教えているのです。父性愛は、そのような人格を育てる働きを担っています。

 

6 まとめ

父性が失われると、人は自らの責任を回避するだけではなく、自分自身を治める力も弱くなっていきます。

今回取り上げたカイン、エサウ、サウルについて、聖書は父親との関係を詳しく記してはいません。

しかし、3人の歩みは、人が神の導きよりも怒りや欲望、恐れといった衝動に従うとき、どのような結果を招くかを教えています。

父性の根源は神にあります。そのことを思えば、人が神との関係を失うとき、父性もまた失われ始めることが分かります。

その結果、人は怒りや欲望、恐れ、嫉妬などに振り回され、一時的な感情によって人生が左右されてしまうことがあります。

ですから、父性愛が育てようとする人格は、自らを律し、使命と目的に従って生きる人格なのです。

次回は、父性の喪失が家庭や社会全体にどのような影響を及ぼしていくのかについて考察していきます。

 

タイトルとURLをコピーしました