聖書に学ぶ父性の役割―第6回 責任回避はなぜ起こるのか

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前回は、人間は本来、神から認められることによって自らの存在価値を確信できるようにつくられていること、そして父性愛とは、人からの評価ではなく、神からの承認を人生の基準として生きる人格を育てる愛であることを考察しました。

このような人間が神との関係を失うと、承認欲求が肥大化するだけではありません。もう一つ現れる大きな変化があります。それは、自らの責任を他者へ転嫁するようになることです。

現代社会では、問題が起こると、その原因を環境や他人に求める傾向が見られます。もちろん、実際に他者に責任がある場合も少なくありません。

しかし、どのような状況であっても、自分が担うべき責任まで他者に転嫁するようになると、人は人格的な成長の機会を失ってしまいます。

聖書は、この責任回避の問題を、人類最初の堕落の場面から描いています。今回は、人間が責任を回避するようになった起源について考えてみたいと思います。

 

1 神はまずアダムに問いかけられた

善悪を知る木の実を食べた後、神はまずアダムを呼ばれました。

 「あなたはどこにいるのか」。(創世記3章9節)

神はすべてをご存じでした。それにもかかわらず、最初にアダムに問いかけられたのは、責任を追及するためではなく、自らの行為と向き合う機会を与えるためだったと考えられます。

創世記の2章で、神はまずアダムに戒めを与えられました。前回まで見てきたように、それは家庭における責任をアダムへ委ねられたことを示しています。

その責任を担う立場にあったアダムに、神は最初に問いかけられたのです。

 

2 「彼女が与えたので」

しかし、アダムの答えは、自らの責任を認めるものではありませんでした。

 「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。(創世記3章12節)

ここでアダムは、自分が食べたという事実そのものは認めています。しかし、その原因を「あの女が、木から取ってくれたので」と説明しています。

さらによく読むと、「わたしと一緒にしてくださったあの女」と語っており、その責任を神にまで向けているようにも受け取れます。

もちろん、エバがアダムに実を渡したことは事実でした。しかし、食べるかどうかを最終的に決めたのはアダム自身です。

責任を認める代わりに、その原因を他者に求める姿がここに描かれています。

 

3 「へびがわたしをだました」

神がエバに問いかけられると、エバもまた次のように答えました。

 「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました。」(創世記3章13節)

へびがエバをだましたことも事実でした。しかし、エバもまた、自分が木の実を食べることを選んだという事実より先に、へびの行為を語っています。

こうして、人類最初の罪の場面では、アダムはエバに、エバはへびにと、それぞれ責任の原因を他者に向けています。ここに責任転嫁の原型を見ることができるのです。

もちろん、他者の影響を受けることは誰にでもあります。しかし、人格の成熟とは、影響を受けたことと、自らが担うべき責任とを区別できるようになることでもあります。

父性愛は、まさにそのような人格を育てようとする愛なのです。

 

4 責任転嫁は人格の成長を止める

父性愛が教えようとするものは、まさに自らの責任と向き合う姿勢です。人は、自分の失敗を認め、その責任を受け止めることによって初めて成長することができます。

ところが、失敗の原因を他人や環境にばかり求めるようになると、自分自身を変える必要がなくなります。その結果、同じ問題を何度も繰り返すことになります。

責任を認めることは、自分を責め続けることではありません。自らの選択と向き合い、「これからどう生きるか」を考える出発点なのです。

 

5 現代社会に見る責任回避

現代社会でも、このような責任回避の構図はさまざまな場面に見ることができます。

何か問題が起こると、社会が悪い、家庭環境が悪い、教育が悪い、会社が悪いと語られることがあります。もちろん、それらが問題の一因であることは否定できません。

しかし、それだけで終わってしまうなら、人は自らの人生を切り開くことができません。

父性愛は、「誰の責任か」だけを問い続けるのではなく、「私が果たすべき責任は何か」を問いかけます。人格の成熟は、この問いに向き合うところから始まります。

自らが担うべき責任から逃げない人は、自分の人生の主人公になります。しかし、その責任を他人や環境に転嫁し続ける人は、いつまでも他人によって自分の人生が左右される存在になってしまいます。

 

6 まとめ

人類最初の堕落の場面で、アダムとエバはともに自らの責任よりも先に他者の行為を語りました。そこには、人間が自らの責任を回避しようとする姿が描かれています。

父性愛が育てようとする人格はその反対です。失敗を他者のせいにするのではなく、自らの責任を認め、その経験を成長の糧としていく人格です。

もちろん、人は一人で完全に責任を担える存在ではありません。しかし、自らが担うべき責任から逃げない姿勢こそが、人格を成熟へと導いていきます。

次回は、父性の喪失によって、自分の感情や衝動を制御する力がどのように弱まっていくのかについて、聖書の視点から考察していきます。

 

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