聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第4回 誘惑の最終形態

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これまで本シリーズでは、誘惑が単なる外的な悪の働きではなく、人間の主体性を揺るがす働きであることを見てきました。

欲望は判断を曇らせ、恐れは行動を制限し、環境や習慣は無意識のうちに人間を支配します。そして、そのような誘惑に打ち勝つためには、神を中心とする主体性の確立が必要であることを確認してきました。

ところで、誘惑にはさらに深い段階があります。それは、人間が神に求めるべきことを、神以外のものに求めるようになることです。本稿では、この問題について考察していきます。

 

1 誘惑の最終段階とは何か

多くの人は、誘惑と聞くと欲望や罪への誘いを思い浮かべますが、聖書を見ると、誘惑の本質は単なる行動の問題ではありません。それは、どこに判断基準を置くのかという問題です。

人間は本来、神のみ言を基準として生きるように創造されました。しかし誘惑は、その基準を神から別のものへと移そうとします。

最初は欲望かもしれません。あるいは恐れかもしれません。しかしそれらに支配され続けると、人は神よりも先に別のものを求めるようになります。

その結果、人間は神との関係を中心として判断するのではなく、人の意見や環境、常識や世論を基準として判断するようになるのです。ここに誘惑の最終段階があります。

 

2 エバはなぜ堕落したのか

この問題を考えるうえで、創世記3章の堕落の出来事は非常に重要です。

一般には、エバが蛇の言葉にだまされたことが堕落の原因であると理解されています。それは間違いではありませんが、もう一歩踏み込んで考える必要があります。

問題は蛇の言葉を聞いたことそのものではありません。本当の問題は、その言葉を神のみ言よりも優先して判断したことであり、エバが最後に神に尋ねなかったことにあるのです。

蛇は、「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3章5節)と語りました。

このときエバが、「天のお父様、蛇の言うことは本当でしょうか」と神に尋ねていたならば、結果は変わっていたかもしれません。しかしエバは神に尋ねませんでした。

神よりも先に蛇の言葉を判断基準とし、その結果として行動したのです。ここに堕落の本質があります。

堕落とは、神を否定することから始まったのではありません。神以外のものを先に求めることから始まったのです。

 

3 相談すること自体が問題ではない

ここで誤解してはならないことがあります。それは、人に相談することが悪いのではないということです。聖書にも助言を求めることの重要性を示す箇所があります。

 相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。(箴言15章22節・新共同訳)

聖書は相談すること自体を否定していません。むしろ、独善に陥ることなく、他者の知恵に耳を傾けることの重要性を教えています。ですから、問題なのは相談の順序なのです。

何か問題が起こったとき、あるいは何か悩みがあったとき、まず神に祈り求めるのか、それとも最初から人に答えを求めるのか。この違いは非常に大きな意味を持ちます。

人は不安になると、すぐに誰かに相談したくなります。しかしそのとき、自分自身で神に真剣に祈ったでしょうか。神のみ旨を求めたでしょうか。神との対話を通して答えを求めたでしょうか。

その過程を飛ばして人の意見を求めるならば、主体性は次第に失われていきます。なぜなら、その人の判断基準が神から人へと移ってしまうからです。

もちろん、神に祈り、自ら真剣に求めたうえで人に相談することは問題ではありません。むしろ必要な場合もあります。

しかしその場合でも、最終的な判断基準は神との関係の中になければなりません。ここに信仰における重要な原則があります。

 

4 現代人は誰に相談しているのか

この問題は現代社会においてさらに深刻になっています。

私たちは何か問題が起きると、まずインターネットで検索します。そしてSNSを見て、専門家の意見を探し、世間の評価を確認します。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。問題は、それらが神よりも先に求められることです。

現代において、蛇の言葉がSNSや世論、専門家の意見そのものに置き換わったということではありませんが、それらを神よりも優先して判断基準にするとき、そこには創世記3章と同じ構造が生じるのです。

蛇の言葉がSNSに変わり、世論に変わり、専門家の意見に変わっただけです。人間は依然として、神よりも先に別のものに答えを求めています。

その結果、主体性は失われ、環境や情報によって左右される人生になってしまうのです。

 

5 結論―神との関係が主体性を守る

以上の考察から分かることは、誘惑の最終形態とは、神以外のものを先に求める心ということです。

それは必ずしも悪意や反抗として現れるわけではありません。むしろ善意や不安、あるいは慎重さという形で現れることが少なくありません。

しかしその結果として、人間は神との直接的な関係を失い、他人や環境に判断を委ねるようになります。

主体性とは、自分勝手に生きることではありません。神との関係の中で自ら判断し、行動することです。そのためには、まず神に求めることが必要です。

人の助言を受けることはあっても、その前に神に祈り、神のみ旨を求めることが必要です。

神との縦的関係が確立されているとき、人は環境や人の意見に振り回されることなく、主体的に生きることができます。そしてその主体性こそが、誘惑に打ち勝つための土台となるのです。

次回は、「主体性の完成 ― 神と一致した自己として生きる」というテーマを通して、本シリーズの結論を考察していきます。

 

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