聖書と信仰

聖書に見る神の愛

聖書に見る神の愛―第3回 行いに関わる愛

1 なぜ「行い」が問われるのか前回は、人間がまず無条件に受け入れられている存在であることを確認しました。つまり、人の価値は行いによって決まるのではなく、存在そのものにおいて、すでに肯定されているという点です。では、もし人間が無条件に受け入れ...
聖書に見る神の愛

聖書に見る神の愛―第2回 無条件に注がれる神の愛

1 なぜ「無条件の愛」が必要なのか前回、神の愛は、一つではなく、少なくとも二つの側面を持つことを確認しました。その中でも本シリーズがまず扱うべきは、私たちの存在基盤となる「無条件に注がれる愛」です。なぜなら、この土台がなければ、人間の生き方...
聖書に見る神の愛

聖書に見る神の愛―第1回 聖書が示す神の愛は一つではない

1 「愛」という言葉について私たちは日常的に「愛」という言葉を用います。「親子の愛」「夫婦の愛」「隣人愛」「神の愛」など、さまざまな場面で使われていますが、その意味を厳密に区別して考えることはあまりないのではないでしょうか。しかし、聖書を丁...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―【補講】ペテロはなぜ沈んだのか

1 水の上を歩くという奇跡マタイによる福音書14章には、イエスが湖の上を歩かれた有名な場面が記されています。そのとき弟子たちは恐れ、「幽霊だ」と叫びました。しかしイエスは、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイ14章2...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第5回 主体性の完成

1 「自分を信じること」の最終定義本シリーズでは、悪の誘惑の構造とその克服について段階的に考察してきました。誘惑は外的な力ではなく内的応答の問題であり、その本質は主体性の喪失にあることを確認してきました。そして最終段階において提示されたのが...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第4回 誘惑の最終形態

これまで本シリーズでは、誘惑が単なる外的な悪の働きではなく、人間の主体性を揺るがす働きであることを見てきました。欲望は判断を曇らせ、恐れは行動を制限し、環境や習慣は無意識のうちに人間を支配します。そして、そのような誘惑に打ち勝つためには、神...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第3回 神に信頼される人間

これまで本シリーズでは、誘惑の克服が主体性の回復にあること、そしてその最終段階として「神に基づいた自己を信じる」ことの重要性を確認してきました。ここでさらに踏み込んで、「神が人を信じるとはどういうことか」という問題について考えてみたいと思い...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第2回 聖書における自己否定と自己信頼

1 聖書はなぜ自己否定を求めるのか本シリーズの第1回では、「自分を信じること」という命題が誘惑克服の最終段階に位置づけられることを確認しました。ここで聖書における一つの重要な問題に直面します。それは、聖書が繰り返し「自分を捨てよ」と教えてい...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅵ―第1回 「自分を信じること」が誘惑克服の最終段階

1 誘惑の本質人間はなぜ、繰り返し同じ誘惑に負けるのでしょうか。意志の問題でしょうか。それとも環境の問題でしょうか。聖書はその答えを、より深い次元に求めています。これまで本シリーズでは、悪の誘惑の構造とその克服について段階的に考察してきまし...
悪の誘惑とその克服

聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅴ―第6回 現代社会における誘惑と支配の完成形

これまで私たちは誘惑の構造を段階的に見てきました。誘惑は外からではなく内面と結びつくことによって成立し、甘言と美辞は承認欲求に働きかけ、失敗と挫折は思考を停止させ、プロパガンダは思考の枠組みそのものを形成し、そして最終的には惰性という形で主...