聖書に学ぶ悪の誘惑とその克服Ⅱ―補講Ⅱ 誘惑の第2段階

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1 繰り返される誘惑

ルカによる福音書4章13節には、イエスが三つの試みを受けられた後について、「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」と記されています。

ここで重要なのは、「一時イエスを離れた」と記されている点です。すなわち、誘惑はこの場面で終わったのではなく、形を変えて続いていくものであることが示されています。

このことは、誘惑が一回限りの出来事ではなく、機会をうかがいながら繰り返されることを意味しています。

 

2 直接から間接へと変わる誘惑

荒野においてサタンは、イエスに直接働きかけましたが、その方法が通用しないと分かると、別のかたちで近づくようになります。

その一つの例が、ルカによる福音書22章3節に記されている「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」という出来事です。

さらに、マタイによる福音書16章23節では、イエスはペテロに向かって「サタンよ、引きさがれ」と言われました。

この言葉は、ペテロその人を否定したのではなく、ペテロを通して語られた神の御心に反する思いを退けられたものです。ここに人を通して間接的に働く誘惑の構造が明確に現れています。

 

3 誘惑の第2段階

このように考えると、誘惑には段階があることが分かります。すなわち、最初は本人に直接働きかけますが、それが通用しない場合には、身近な人を通して間接的に影響を与えるという形に移行するのです。

このような働きは、個人だけでなく共同体全体にも及びます。実際にイエスは、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された」(ルカによる福音書22章31節)と言われました。

ここで語られている「あなたがた」は複数であり、誘惑が人間関係や集団の中で広がる性質を持つことが示されています。

一般的に私たちは、自分自身に対しては警戒心を持つことができても、信頼している人が語った言葉に対しては無防備になりやすく、その結果として、無批判に受け入れてしまうことが少なくありません。

 

4 善意の言葉に潜む危険

マタイによる福音書の16章22節で、ペテロが語った言葉はイエスを思う善意から出たものでした。「そんなことがあるはずはございません」という言葉は、人間的に見れば自然であり、理解しやすいものです。

しかしイエスは、それを神の御心ではなく人間の思いに基づくものとして退けられました。

ここに明らかなように、言葉の動機が善意であったとしても、その基準が神のみ言と一致していなければ、それは人を誤った方向へ導く働きとなり得るのです。

また、誘惑は外からの圧力としてだけではなく、内側の思いとしても働きます。

ヨハネによる福音書13章2節には、「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」と記されており、ここに誘惑が人の内面に入り込む構造が示されています。

 

5 創世記3章の場合

この構造は創世記の3章にも見られます。へびはエバに語りかけ、その言葉を受け入れたエバがアダムに与えました。すなわち、誘惑は一人の内にとどまるのではなく、関係を通して広がっていく性質を持っています。

この場面で、アダムもまた、エバから渡されたものをみ言によって吟味することなく受け取りました。すなわち、誘惑はエバの内にとどまらず、アダムへと連鎖したのです。

このような連鎖が起きたのは、どちらもみ言を基準として受け取る者の立場に立てていなかったからです。

このとき重要なのは、影響の出発点ではなく、それを受け取る側の基準です。

外からどのような言葉が語られるかも重要ですが、それ以上に重要なのは、その言葉をどのような基準で判断し、受け止めるかです。

同じ言葉であっても、恐怖に基づいて受け取るのか、み言に基づいて吟味するのかによって、人の思考と行動は大きく変わっていきます。

そしてこの誘惑は、必ずしも悪として現れるとは限りません。コリント人への第二の手紙11章14節に「サタンも光の天使に擬装する」とあるように、それは一見すると善いものとして現れることもあるのです。

 

6 現代における誘惑

現代においても、このような形での影響は日常的に見られます。

たとえば、「それくらい問題ないのではないか」「そこまで厳しく考える必要はないのではないか」といった言葉は、一見すると現実的でもっともらしく聞こえますが、その背後にある基準が問われなければなりません。

人の言葉は、しばしば状況や感情に寄り添うかたちで語られますが、それが神のみ言に一致しているかどうかは別の問題です。

したがって、誘惑を見分けるための基準は一つに集約されます。それは、その言葉や考えが神のみ言に一致しているかどうかという点です。

人を通して語られるものであっても、それがみ言にかなっているならば受け入れられるべきであり、そうでないならば退けられなければなりません。

この点について聖書は、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」(ヨハネの第一の手紙4章1節)と教えています。

この基準が保たれているときにのみ、人は外からの影響に流されることなく、自らの歩みを守ることができます。

 

7 結論―誘惑は形を変えて続いていく

荒野の試みは終わりましたが、誘惑そのものは終わってはいません。それは直接的な働きから間接的な働きへと姿を変えながら続いていきます。

ペテロの第一の手紙5章8節が語るように、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」のです。

そして、その本質は変わることがありません。すなわち、神のみ言を基準とするのか、それとも人の思いを基準とするのかということが、常に私たちに問いかけられているのです。

 

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